4/21 ★聖書箇所★ コリント人への手紙第二4:14~18

 【説教題】    「よみがえりの生命、日々新たに生きる」 吉原宣教師

4:14「主イエスをよみがえらせた方が、わたしたちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる・・・

 復活の聖日、おめでとうございます。四福音書はどれも、十字架と復活の描写に多くの紙面を割いています。「ルカ-使徒」には聖天の描写もあります。旧約聖書の律法の書、預言の書、諸書(ルカ24:44)も、千年以上の昔から、救い主の受難と栄光を予告してきました。新約聖書の書簡も、「ローマ」から「黙示録」に至るまで、主イエスの受難と栄光の意味について、折々にまとめてくれています。例えば、私たちの罪の身代わりであり(コロ1:13-14、Ⅰペテ2:24、へブ9:27-28)、謙遜と従順の模範であり(ピリ2:1-8)、和解のためであり(ロマ5、コロ1:19-20)

勝利を得るためでした(黙5:5)。味わっても味わい切れないこれらの恵みを、さらに味わっていきましょう。

 今日の聖書個所では、私たちの復活が強調されています。死を迎えるとも、やがては肉体を持つ形で復活させていただけるというのです。父なる神の御手にその霊を委ねた主イエス(ルカ23:46)は、その復活もまた、父なる神にお委ねになりました。これは遠からず、来たるべき私たちの死にも模範と励ましとなるのではないでしょうか。また、パウロはこの箇所で、問題の多いコリントの兄姉の復活を前提とし、自分たち使徒たちも共に同様にしていただける、という言い方をしています。これは、リーダーとしてなんと謙遜で励ましに満ちた姿ではないでしょうか。さらに、この箇所を貫く背景は使徒の艱難です(4:8-12,16-18)。しかし、パウロは、艱難に悩まされつつも、復活の生命ゆえに日々新たな者とされ、目には見えない希望を抱き続けていけると告白しています。そして最後に、すべてのことは、恵みと希望が私たちのところを越えてさらに多くの人々に届くためだと語ります。私たちは、信仰の先輩たちと、自分たちの後に続く人々の間に置かれています。「あなたがた」の立場に共感しつつ、「わたしたち」の立場にも学びつつ、復活の生命を日々新たにしていただきましょう。

4/14 ★聖書箇所★ マタイの福音書27:45~50

 【説教題】    「聖書が語る十字架とは」

46節「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。・・・

 随分前ではありますが、ハリウッド俳優でもあるメル・ギブソンが監督を務めた「パッション」という映画が話題となりました。イエス・キリストが十字架で死ぬまでの最後の12時間をリアリティーをもって描かれた作品です。ゴン、ゴン、と釘を打つ音なども印象的に用いられており、目を開いて見続けることが困難なほどです。

 しかし、福音書には、そのようなそのようなリアリズムは記されておりません。確かに、十字架上での無残な姿は示されているのですが、鞭を打たれるたびに背中の肉片が飛び散る姿、流される血、殴られて顔が歪んでいく姿など克明に記されてはいないのです。福音書の記者たちは、それを書こうと思えばいくらでも書けたことだと思いますが、そうはしなかった。つまり、そこが中心ではなかったということです。

 彼らがどうしても書き残すべきこととして記したこと・・・それは「見捨てられたイエス・キリストの姿」です。ユダヤ人たちによって「十字架につけよ!」と叫ばれたユダヤ人の王・・・見捨てられたのは同胞のユダヤ人だけではありません。ゲッセマネの園で捕まった後、弟子たちでさえ蜘蛛の子を散らしたように去ってしまいました。さらに、最も力を込めて書かれているのは「神に見捨てられたイエス・キリストの姿」です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(46節)

 神の御子が、父なる神によって見捨てられている。その理由こそが、全人類の罪に対する怒りと呪いをイエス・キリストが背負うためだったのです。十字架上のイエス様の苦悩と叫びと孤独は、わたしたちが負うべきものでした。わたしたちの救いはあの十字架上にあるのです。客観視せずに、まっすぐに十字架のイエス様を見上げる一週間といたしましょう。

4/7 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書13:1~7

 【説教題】    「後で分かるようになる」

7節「わたしがしていることは・・・後で分かるようになります。

 過越の祭りの前に、イエスさまは夕食の席で弟子達の足を洗い始めました。突然のことで、弟子達もびっくりしたはずです。当時は今のように立派な靴ではありません。粗末なサンダルで一日中歩き回った弟子達の足は、泥やほこりがこびりついた、臭い足だったでしょう。その汚い足をイエスさまが順番に、丁寧に洗っていかれたのです。弟子達の足はみるみるきれいになります。それと並行して、たらいの水は濁っていきます。イエスさまの手ぬぐいも汚れていきます。

弟子達はきれいになるものの、イエスさまは汚れていく・・・弟子達は気持ち良くなるけれど、イエスさまは汚れをまとい、不快な思いになる・・・。

これが弟子達にとって、忘れられない原体験になっていくのです。

 この体験を土台に、翌日、弟子達は十字架上で殺されたたイエスさまの姿を目撃します。全身傷だらけで、血を流し、ほぼ裸同然、糞尿も垂れ流し状態だったでしょう・・・無残な姿に、多くの人は軽蔑しましたが、弟子達は気づくのです。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。」(イザヤ53:5)と。実際に弟子達だけではなく、十字架を見た多くの部外者も「この方は本当に神の子であった」(マタイ27:54)と叫んだのです。

 「どうしてあの時、イエスさまの愛に気が付かなかったのだろう・・・」「あの出来事にこんな意味があったのか。」わたしたちも弟子達と同様、イエスさまの愛と真理に目が開かれるまで、相当な時間を要します。あとから後悔することもしばしばです。しかし、イエスさまは、そのような鈍感なわたしたちの足を今日も洗いながら、「後で分かるようになる」と声を掛けてくださるのではないでしょうか。そのような主の愛を胸に刻みながら、主の十字架を想いつつ歩みましょう。

3/31 ★聖書箇所★ マタイの福音書4:1~11

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り(⑧:最終回)」

「国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン

 今日の箇所は、実際には聖書に記されているものではありません。主の祈りが礼拝の中で祈祷文として伝統的に唱えられるようになった際に、祈りを締めくくる言葉として追加されたものであろうと考えられています。

 この直前の祈りが「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」という祈りでした。誘惑や悪にまどわされがちな自分自身を認める祈りです。

 イエスさまがその働きを始めようとするまさにその時、荒野に導かれ、そこでサタンに会い、この世界が与えることのできるものをすべてあなたにあげよう、との申し出を受けました。サタンがイエス様に申し出ているのは、経済的な力(パン)、霊的な力(奇蹟)、政治的な力(権力)、といったようにどれも善いものばかりです。しかし、イエス様はそれらすべてをきっぱりと断るのです。これは、経済や、奇蹟や権力自体が悪いという話ではなく、私たちの抱える弱さや罪というものが、それを善いものとして用いることができなくなっているという現実を自覚していないところにあるのです。何歳になっても、お金の誘惑にはなかなか勝てないものです。力への誘惑もそうです。権力を手にした途端に謙虚さを失い、何でも自分の想い通りに、という欲求が、家族や社会における人間関係に亀裂をもたらすのです。

 イエス様がこれらの力をサタンから受け取ることを拒否されたのは、これらのものが神様ご自身の栄光とは別に、むしろ私たち自身の栄光のために用いていくときに、サタンへの礼拝につながっていくと判断されたからです。

 だからこそ、この祈りに立ち返る必要があるのです。「この国家も、権力も、すべての栄光は、神様ご自身のものです。わたしたちのものではありません。」この祈りは、自分の手にしているものすべてが、主の御手の中にあると確認していく祈りなのです。

3/24 ★聖書箇所★ マタイの福音書12:9~21

 【説教題】    「傷んだ葦を折ることなく」    堀川 寛牧師

20節「彼は・・・傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない

 現代はとても「生き辛い」時代です。物質的には十分豊かになったし、便利で快適な暮らしができるようになったのですが、精神的には窮屈で、決して快適とは言えない環境で生きていかねばなりません。心を病む人は増加の一途をたどり、「一億総うつ状態」などと言われています。

 イエス様の時代のユダヤは、現代日本とは全く違う世界でしたが、別の意味でやはり「生き辛い」時代でした。特に障害を持っている人や、病気の人、罪人と呼ばれていた、いわゆる汚れた仕事をしていた人たちなどは、差別され、毛嫌いされていました。

 しかしイエス様は、あえてそういう人たちに近づき、彼らを癒し、彼らを慰め、彼らの友となられました。それは、イエス様にとっては大切な羊だったからです。イエス様は彼らを責めず、ありのままを受け入れられました。なので多くの人がイエス様のもとに集まってきたのです。その様子をマタイは、イザヤの言葉の成就だと捉えました。「彼は・・・傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」という予言は、イエス様の姿そのものだったのです。

 現代も「傷んだ葦」状態の人たちが大勢います。あからさまに差別されたり、毛嫌いされたりすることはありませんが、理解されることなく、多くの人が孤立しています。イエス様の「からだ」である教会は、そのような人たちを受け入れ、癒し、慰める場でなければなりません。個々の病や問題を解決できなくても、少なくとも「いっしょに泣く」(ローマ12:15)ことがこと私たちクリスチャンの使命です。

 教会でイエス様の慰めを受けた人たちは、自分の味わった(ている)苦しみの意味を見出し、新しい人生の目的が与えられます。それは、今度は自分が誰かを慰める、ということです。イエス様はペテロに、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)といわれました。パウロも、「それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」(Ⅱコリント1:4)と言っています。

 慰められる人から慰める人に、癒される人から癒す人に、愛される人から愛する人に変わるとき、私たちは本当の意味で「生き辛さ」を克服できるのです。それを可能にするのは、イエス様の無限の愛です。

3/17 ★聖書箇所★ ルカの福音書8:40~56

 【説教題】    「神のイニシアティブ」 吉原牧師

ルカ8:50「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。

 ヤイロは、ガリラヤ湖畔の町の、会堂の運営・維持を担当する管理官でした。地域の有力な指導者でしたが、恥も外聞もなく、慌ててやって来て、衆目の中、主イエスの前にひれ伏します。当時の文化で成人を目前にした、12歳ほどの娘が死にかけていたのです。しかし、この謙虚さ、切なる願いが、主イエスを動かします。私たちも、人目を気にせず、神さまの御前に全てを投げ出して礼拝し、願うことができているでしょうか。

 ところが、ヤイロの家への道行きを阻むものがありました。ひしめき合う群衆、そして、積年の病に悩まされる女性でした。素晴らしい信仰を示したこの女性には、素晴らしい奇蹟が起こります。ところが、立ち止まり振り返る主イエス、質問、沈黙、女性の告白から証への流れの中で、ヤイロの時間は止まります。一刻を争う危機的な状況の中で、延々と待たされるのです。会堂管理者ならば人格者であったかもしれません。しかし、愛娘の命が懸かった状況でどこまで冷静でいられたでしょうか。私たちも、兄姉への主の祝福は感謝しつつも、自分の時はいつかとやきもきすることがあるのではないでしょうか。ここでのヤイロが模範になるかは不明ですが、少なくとも、後に来るべき主の時に期待し、忍耐を抱いて待つことが勧められているのではないでしょうか。

 そこに娘の死の知らせが届きます。ナインの若者の蘇りなど、奇蹟の噂は伝わっていたことでしょうが、この全ての終わりにヤイロは失望したことでしょう。しかし、主イエスは、「信じなさい」(あるいは、当初の信頼の通り、信じ続けなさい)とお語りになるのです。主イエスをお招きしようと必死だったヤイロでしたが、この瞬間、主が主導権をお取りになったのです。否、最初からあった主の主導権が、ここに明らかになったのかもしれません。私たちもまた、悩みや絶望の中にある時こそ、神が主導権を取り、素晴らしい奇蹟をなしてくださるのではないでしょうか。あなたにとっての「娘」とはなんでしょうか。初めの信仰に立ち返る、あるいは、新たな信仰をいただきましょう。

3/10 ★聖書箇所★ マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り⑦

13節「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 「わたしたちをあらゆる試練や誘惑、すべての悪から守ってください。」という祈りです。一日の終わりの感謝と共に明日のための祈りとして祈られる言葉かもしれませんが、ある方にとっては差し迫った状態で祈られる悲鳴のような祈りかもしれません。神様の前では、「助けてください!」と素直に自分の弱さを認めても良いのです。

 しかし、実際のところ、わたしたちは自分の弱さを吐き出して祈ることが出来ていない現実に直面します。祈祷課題にも、他の人が課題を挙げて兄姉に共有している横で、「あのことは到底言えない」と自分の胸の奥に今日もしまいこんだままの事柄はないでしょうか。どうしてわたしたちは祈ることを避けてしまう事柄があるのでしょう。そこには自分の力を信じたいという思いがあるからではないでしょうか。しかし、そのような思いのある場所でこそ、「祈りの声」をあげていく必要があるのではないかと、主の祈りはわたしたちに迫ってきます。

 夫婦関係、職場や学校の人間関係、仕事や将来の事、メディアから受ける影響、性的な事・・・「助けてください」と素直に祈れない場所は、実は最も私たちが試みに負けてしまいがちなところなのです。あらゆる事柄について、もっと具体的に、もっと素直に、もっと神様を求めて祈っても良いのだと、主は招いておられます。

 パウロが「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と宣言しています。彼は多くの教会に信仰の影響を与えるリーダーでしたが、同時に彼は自分が育てたピリピやエペソ教会のメンバーに対して「祈ってください」と言える人でもありました。「私たち」という言葉に、今日隣に座っているあの人の祈りも含まれるのです。私たちが共に祈り合う場所に神の助けと勝利が満ち溢れていくのです。

3/3 ★聖書箇所★ マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り⑥」 

12節「私たちの負い目をお赦しください。

      私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 主の祈りが赦しを祈りはじめるとき、それまでの日々の糧を求める祈りとはうってかわって、心の中に苦々しさや、生々しい思いが加わってきます。日々誰かをゆるせない、受け入れられない思いでいっぱいの私たちにとって、この箇所は、主の祈りの中でも最も祈りにくい祈りなのではないでしょうか。

 ここで教えられることは、まず私たちは、他の誰かをゆるすことについて語りはじめるよりも前に、自分たちの罪の赦しを願うように求められています。つまり、苦しみをもたらした他の人の過ちを思い出す前に、一呼吸置いて、神が苦しんでくださった私たちの大いなる過ちを思い巡らすように求められているのです。

 私たちが誰かをゆるそうとしたとき、到底ゆるすことのできない自分に出会います。仮にゆるしているつもりだったとしても、しばらくすると、また過去の出来事がフラッシュバックしてきて、何とも言えない思いが沸き上がってくるのを感じるのです。そのとき、本当の赦しは神の赦し以外に、この地上にはないことを知ります。主イエスの十字架の許しを受け取らない限り、また、この赦しの中に生き続けていかない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることは出来ません。

 誰かをゆるせず、むしろ、憎む思いで今日も苦しみ、もがき続けるわたしたちの前に主イエスは立って「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」ととりなし祈り続けてくださるのです。主なる神は赦せない私たちを責めるお方ではなく、そのような私たちのために傍らに立って、共に心を痛めておられるお方です。そのような主が、私たち思いと祈りのことばを新たにし、わたしたちからゆるしはじめていく歩みを導いてくださるのです。

2/24 ★聖書箇所★ マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り⑤」 

11節「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

 みこころを願う祈りから「糧(ご飯)を願う祈り」へ移っていきます。この祈りは糧(ご飯)を願い求めることによって、糧と同じくわたしたちのいのちもまた、神様から与えられたものであるということを日ごとに思い起こすことができます。わたしたちの神様は、いつも喜んでわたしたちを養ってくださるお方なのです。

 さて、今日のメッセージのキーワードは「日ごと」です。わたしたちはただその日、一日分の糧を求めて祈っているのです。一ヶ月や一年分ではありません。この「日ごと」という言葉は、詳しく説明すると「その日に間に合う」とか「その日に十分な」という意味があります。荒れ野でマナが与えたれた時に、イスラエルの民には、それぞれ一日に必要な分だけを集めることがゆるされました。(出エジ16:16)一方、現代の日本では、年間2,842万トンの食品廃棄物等が出されています。このうち、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は646万トン。これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食糧援助量(平成26年で年間約320万トン)の訳2倍に相当します。なぜこのようなことが起こってしまうのでしょう。それは、自分の心に込み上げる「虚無感」の存在を、絶えず何かを消費し続けることで、ごまかそうとしているからではないでしょうか。

 私たちの場合、物質に溢れたこの消費文化のただ中で、さらなる恵みを求めて、この祈りを祈るべきです。それは、「もうこれで十分であるということを知る恵みを与えてください。」「この世界が多くの物によって誘惑して来るときにも、「いらない」と言えるように助けてください。」・・・この祈りこそ、わたしたちが「基本に立ち返る」ことを学び、自分が欲しい物ではなく、自分にとって本当に必要な物を求めることができるように訓練されていく祈りなのです。

2/17 ★聖書箇所★ 黙示録4:1~11

 【説教題】    「礼拝 ― 見えない神、見える恵み」 吉原牧師 

黙示録4:10「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。

 主イエスの受難から昇天、教会の誕生と宣教開始から約65年後、ペテロとパウロの殉教から約25年後、ヨハネは今のトルコ西岸、エーゲ海のパトモス島に幽閉されていました。おそらくはパウロとテモテの働きを継承するような形で長年の拠点としていた、エペソに迫害が起こった結果なのでしょう。ここからヨハネはエペソを含む7つの教会に、回覧板のような手紙を書き送ります。これが黙示録と呼ばれる書物です。

 7教会にひとしきりのメッセージを送ったヨハネは、聖霊にあって、幻の中、天の御座のもとに引き上げられます。この章以降を構成する一連の幻の始まりです。

 今日の聖書個所からは次のような点が学べます。第一に、神は人間による描写を超越した方であるということです。旧約聖書以来のユダヤの伝統では、神は比喩をもって語られるのみです。見えない方ですから無理もありませんが、幻の中で見えているかのようなヨハネもまた、宝石にたとえるだけで、御座の周囲の荘厳さを描くに留まっています。万物の創造主である神は、次元を超えた方です。私たちも、自らの限られた体験のみで神をさもわかったかのように語るのは、厳に慎むべきです。断定をさけ、謙遜に、畏れをもって、ただその恵みを証する者となっていきましょう。

 第二に、御座の周りには四つの生き物がいます。全身が目だらけの生き物です。ところが、この生き物が絶え間なく叫ぶのです。「聖なるかな!」黙示録のテーマの一つは証です。この世の災いを目撃し、聖徒の忠実さを目撃して、― しかし私は見たー ヨハネは繰り返すのです。生き物が神を賛美する瞬間、それは地での聖徒の証しの瞬間なのかもしれません。忠実に歩みましょう。第三に、その生き物の声を聞き、二十四人の長老が、冠を投げ出して神を礼拝します。私たちも、神の素晴らしさを、一つ、また一つと知るにつけ、共に謙遜に、神のみを礼拝する者となっていきましょう。

2/10 ★聖書箇所★ マルコ16:15、2ペテロ3:9、ヤコブ1:27、詩篇10:18

 【説教題】    「神に従うことが私たちの責任と喜びです。

           不可能なことは神が引き受けてくださるからです。」

 ZOE JAPAN(Michael Heart,Carol Heart)通訳 秦地浩未姉  

 

マルコ16:15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者 

 に、福音を宣べ伝えなさい」

 マイケルとキャロル・ハートはタイを伝道の場所として16年間神に仕えてきました。

彼らはアメリカ人(キャロルは日系アメリカ人)です。当初、彼らは誰一人としてタイ人の知り合いはいませんでした。タイのクリスチャン人口は1%以下です。タイに到着したとき、既に25年間そこで奉仕をしてきた宣教師たちが、この仏教徒の国で福音を伝えるのはとても難しく、ほとんど不可能だと話していました。

 

 また、マイケルとキャロルは子どもの人身取引と戦うためにどのようにすればよいか訓練も受けていませんでした。「どうすれば奴隷のように扱われている子どもたちを救い出せるのでしょう?被害を受けた子どもたちをどうやって回復させればいいのでしょう?どうやって関係者全員の安全を確保すればいいのでしょう?これらすべての支払いはどうすればいいのでしょう?・・・」16年前は、今日のように人身取引が世界レベルで扱われてはいなかったため、周りに学べる人がいなかったのです。マイケルとキャロルには、この仕事をする資格がありませんでした!

 

ただ彼らが知っていたのは、神が彼らにこのことをするように命じられたということでした。それで彼らは「はい、主よ、あなたに信頼し、従います・・・」と言ったのです。

 

神はとても誠実な方でした・・・一歩一歩、何もない所に道を造ってくださいました。そして奇跡的にすべての必要を満たし、不可能を可能にし、今日もそれを続けてくださっています!

2/3 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書1章1節、14節

 【説教題】    「主は私たちの間に」   田中牧師

1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

 クリスマスから一ヶ月が過ぎ去った。人は日々の出来事に関心が持てなくなると、時の流れを早く感じるようだ。あなたはこの一ケ月を長く感じたであろうか?それとも短くかんじたであろうか?

 天地万物の創造の前からおられた神が、人となられてこの世に来られた。来られただけでなく、みことばには私たちの間に住まわれたとある。この人となられた神がイエス・キリストである。

 さて「住む」という言葉は、ギリシァ語の天幕、幕屋という言葉に由来する。天幕は仮の住まいであり、やがてそこから離れる事も予想できる。確かにイエス・キリストのこの世での御生涯は33年数ヶ月で、仮の住まいのようであったかもしれない。また天幕というと、出エジプト記の記述を思い出すが、そのところで造られた神の天幕も、ソロモンがエルサレムに神殿を建てるまでの、神の仮の住まいであった。しかし仮の住まいであっても、神の栄光が満ちていて、イスラエルの宿営の中央に置かれていたのである。

 私たちは、神の栄光を求めて祈る。また神の栄光が現れることは、大きな関心事でもある。しかし、すでに神は私たちの間に住まわれていることを忘れてはならない。イエス・キリストの救いにあずかり約束の永遠の命を得るまで、私たちはこの世という仮の住まいで、主の栄光を見続ける事が出来るのだ。

 さあ、あなたはこの一年をどのように感じるであろうか?私たちの間に住まわれる、御子イエス・キリストに大いに期待しよう。

1/27 聖書箇所 歴代誌第二711~22

 【説教題】    「950、450、50、そして2050へ」   吉原牧師

歴代誌二7:14「わたしの民が・・・なら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒す。」

 紀元前950年前後、ソロモンは、その栄華の極み、エルサレムに神殿を築き、民と共に神に奉献します。豪華な神殿は、ユダヤ十二部族の歴史の絶頂を象徴するものでした。ところが、この歴代二7:13-15は、並行する列王一8:62-66には見られません。無いものからあるものを語ること、その逆も、慎重にすべきことではありながら、これは、歴代誌の編纂者たちが、聖霊の導きのもとに書き加えたものであると考えることもできます。この歴代誌がまとめられたのが紀元前450年前後だと言われています。この500年間、ユダヤの王と民たちは、神を捨てて異教の神々に走り、偶像礼拝の罪の結果、まずは北王国がアッシリアに、さらに紀元前598年には、南王国もバビロンに滅ぼされてしまいます。幸い、バビロンの次のペルシアの時代となり、紀元前538年以降、エズラ、ネヘミヤらの努力により、ユダヤ人はバビロンから帰還、やがて、エルサレムの町と神殿が再建されます。この歴代誌は、このような、民族の盛衰と復興の歴史を振り返りつつ、二つの神殿に回顧と悔恨、そして新たな決心を重ねて記された、重層的な記録なのです。この神殿は、イエスの時代の40年後、紀元70年に、再びローマにより破壊されます。しかし、パウロが活躍を活発にする紀元50年頃に向けて、神はこの歴代誌が編纂された時代から、既に大きな動きを起こされます。ユダヤ人は全世界に移民を始め、各地で会堂を築き、各地で神への礼拝を始めるのです。そして500年後、それらの会堂から、パウロたちは福音を伝え、私たち一人ひとりこそが聖霊の神殿であると語るのです。

 私たちにも信仰の高みと落ち込みがあります。しかし、神は常に、既に次の時代へ向けた働きを始めてくださっています。皆さんにとって最も印象的な信仰の瞬間はいつでしたか。今はどうですか。大丈夫です。へりくだりましょう。悔い改めましょう。祈りましょう。神は既に次の手を打っていてくださるのです。

1/20 聖書箇所 マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り④」  

10節「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」 

 天において行われている神様のみこころが地上でも実現しますようにというお祈りです。日々わたしたちはこのように祈り、神様のみこころを求めて、従おうとしているにもかかわらず、現実は神様のみこころよりも「自分のお心」が最優先だったりします。「主のみこころを教えてください!」と必死に聖書のページをめくっては、平気で聖書の文脈を無視して都合の良い御言葉を選んだりすることがありませんか。

さらには、第三者から、「それって本当にみこころなの?」と言われると、ドキッとしてしまう自分がいます。

そして、本当にこの決断は正しかったのかとみるみるうちに不安に陥ってしまうのです。

 しかし、神様のみこころというのは、たとえ人間の欲や身勝手な決断で突き進んでしまったとしても、それによって大きく歪められるほど小さなものではありません。神様は人知をはるかに超えた、驚くべき力をもって、ご自分の目的のためにあらゆる事柄を回復なさるお方なのです。(創世記45:4~5、7~8)

 また、神様のみこころというのは、人間の時間枠ではなく、神様の時間枠によって導かれていくのです。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)とあります。わたしたちが祈りながら、神様に与えられたその期間を過ごしていくことこそが、この祈りが果たす大きな役割なのです。

 「神様のみこころを祈る」ということ、それは、時として、天で行われているみこころが自分のねがうものではなかったとしても、その願いを手放す決断を選び取ることができますように、という覚悟も含んだ祈りです。自分の願いをはるかに超えて働かれる、美しき天の御業を賛美しつつ、今日もわたしたちに降り注がれる主の愛に生かされて、神様のみこころを祈り求めてまいりましょう。

1/13 聖書箇所 マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り③」  

6:10「御国が来ますように。」 

 ここから主の祈りは、具体的で日常的なことに向かっていきます。「御国」から、「地」のこと、「糧」のことというように、どんどんわたしたちの身近なことに迫ってきます。つまり、信仰と具体的な日常の生活が密接なことなのだと改めて認識させてくれる祈りなのです。

 「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:14,15)神の国を間近に見るとき、悔い改め、つまり生き方の方向転換の決断が求められます。主イエスを信じるということは、単なる思い付きや一時の感情のことではなく、御国の建設のための担い手として立ち上がることなのです。

 では、御国(神の国)とは、何なのでしょう。それは神様の支配を指します。神様を想い、神と人々を愛し、交わり、学び、働き、仕えていくときに、御国がそこに広がっていくのです。「御国が来ますように」と祈るクリスチャンは、自分が置かれている場所で神の国建設に励むのです。ある人は医療の現場で、ある人はトラックを運転しながら、または教育の現場、畑を耕しながら、イチ社会人として、イチ学生として、・・・家庭内では父親、または母親、子として神の国を建設するとはどういうことだろうかと考えながら、問い続けながら生きるのです。その生き方は、周囲に影響を及ぼします。「なぜあの人は、毎週日曜日の礼拝を大切にするのか」「なぜ流行りの占いに行こうとしないのか」「こんなにも性的な倫理が乱れている(多くの人が平気で浮気をする世の中)にも関わらず、たった一人の女性を愛し抜くのか。」等々・・・。

 神の国の実現を願うクリスチャンの生き方は、この時代、この世界において、クリスチャンとして生きる本当の魅力を伝えながら生きることに直結していくのです。主の祈りは、わたしたちの生き方が変えられていく祈りです。

1/6 聖書箇所 マタイの福音書14:22~34、マルコ6:48

 【説教題】    「わたしたちを見守ってくださるイエス様」 須田神学生 

14:27「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 ①信仰生活における疑問

 だれもが経験する突然の嵐。しかし、弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸に送った

 のは、イエス様ご自身でした。主の命令で舟を出したにも関わらず、嵐に遭遇したので

 す。わたしたちも信仰生活において、イエス様に従いつつも試練に陥り、「主よ、なぜ

 ですか?」という疑問が起こってくる時があります。

 ②イエスの目的(御心)

 イエス様は弟子たちに、この嵐の経験を通して、信仰の大切さを教えようとされていま

 した。つまり、弟子たちが嵐に遭うことは、主の御心においては想定内のことだったの

 です。実は、これ以前に起きたバプテスマのヨハネの死を受けて、弟子たちの信仰(霊

 性)が落ち込んでいました。そのような弟子たちに追い打ちをかけるような嵐の遭遇で

 した。

 ③恐れに打ち勝て! 

 しかし、そのような弟子たちにイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れるこ

 とはない」と励まします。ペテロはまっすぐにイエス様を目指して(目標として)歩ん

 でいたときに、湖の上でさえも立つことが出来たのです。しかし、強風を見て恐怖を覚

 えた瞬間、彼の体はたちまち沈んでしまいました。わたしたちの心には様々な恐れが生

 じます。職場の上司や気難しい方との人間関係の恐れ、自然災害の恐れ、経的な不安

 からくる将来に対する恐れ・・・その恐れから信仰まで取り去られそうなわたしたちの

 手を、主は「すぐに」しっかりと掴み、再び立ち上がらせてくださるのです。

 さまざまな信仰の恐れに打ち勝って、主イエス様と共に信仰の高みを目指してまいりま

 しょう。

12/30 聖書箇所 詩篇22:1~2

 【説教題】    「神様、どうして・・」 櫻井兄弟 

22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」 

 私たちは信仰生活のなかで、ここでのダビデのように「神様、どうして?」と叫びたくなるときがある。

 今年も大きな地震や災害があった。クリスチャンもノンクリスチャンも、等しく同じ災難に会う。まことの神様を信じているのに、イエス様を信じているのに、どうして?という素朴な疑問。素朴で、かつ根源的な疑問。

 しかし、聖書は、はっきりと、すべてのことはすべての人に同じように起こると言っている(伝道者の書9:2)。

 信仰をもっているのに同じようにひどい目にあうのなら、何のために信じているのだろうか・・と思いますか?

 私たちは不幸な目にあわないためにイエス様を信じているのですか?

 サタンがささやく。「神様を信じていたって、ちっともいいことがないじゃないか。そんな信仰は何の役にも立たないだろ?さっさと捨てちまいな。」

 けれどもヨブは言った。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ記2:10

 ここまで言い切るのは難しいかもしれない。でも、ヨブにならいたい。

 祈りが応えられないときにも「どうして?」と言いたくなる。祈っても祈っても応答がなく、主が沈黙されているときの、あせり、失望・・。

 こうした現実を乗り越えることができるのは、ただ神への信頼のみである。どんなに苦しく、つらいことがあっても、見たところはなにも変わらないようでも、神は私たちを絶対に見放さないと信じる。なぜなら御子のいのちを差し出されたほどに私たちを愛しておられるから。神の愛にたいする絶対的な信頼。これこそ私たちにとって、厳しい現実に立ち向かう最後の、そして堅固な砦なのである。

 主の愛のなかにしっかりとどまって、新しい年をむかえよう。

12/23 聖書箇所 ルカの福音書2:1~12

 【説教題】    「クリスマスの神対応~③ヨセフとマリア~ 

10節「私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」 

 先週、奉仕をさせていただいた町田聖書教会には、今月末に出産を控える妊婦の方がいらっしゃいました。小柄な方ですが、お腹にはしっかり赤ちゃんの存在感が!ポコンとしたお腹から今にも出て来そうな雰囲気・・・しかし、見た目とは裏腹に、軽快に歩き回る姿に驚きました。やはり、母は強しです!!

 今日の箇所では、イエスの母マリヤも臨月を迎えていました。しかし、皇帝の命令である住民登録のために、ナザレからベツレヘムという長距離(約140㎞)を旅しなければならなかったのです。妊婦のマリアにとっては、さぞ大変な旅だったでしょう。さらに旅先では、この若い夫婦を泊めてくれる宿屋も見つからず、やっとの思いで見つけたのは、家畜小屋でした。なんとか無事出産を終えたものの、産まれたばかりの救い主が初めて寝かされたのは、家畜のえさを入れる飼葉桶。

 しかし、この箇所からわたしたちは大きな慰めを受け取ることが出来るのです。それは世界で最初のクリスマスの時、ローマ皇帝、この世の権力者の横暴が貫かれているような厳しい世の中で、神の目は、世間的に見れば小さき者であったであろうヨセフとマリヤに注がれていたということ。さらに、信仰のある人でも理解に苦しむような神の深い御心(聖霊によって神の子をやどすということ)を必死に受け止めて生きようとしていたこの若き信仰者たちを、神は決して見離さなかったということ、宿屋すら用意されない世間の冷たい反応を目の当たりにしながらも、それでも聖書は、嘆きやぼやきを記しているのではないということです。嘆きの材料にことかかないのは昔も今も少しもかわりません。しかし聖書は何よりも福音を語ろうとしています。本当に嬉しい知らせ、おとずれがあると言うのです。そして一緒に喜ぼうと、その喜びの中へ私たちを招こうとしているのです。

12/16 聖書箇所 マタイの福音書1:1~17

 【説教題】    「あらゆる人々の王、イエス  

マタイ1:16「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになった。」 

 イエスの物語を始めるにあたり、福音書の著書マタイは、長い系図から始めています。新約聖書を通読しようと意気込んで読み始めてはみたものの、挫折してしまった、読み飛ばしてしまった、いきなりうとうととしてしまったという方もあるでしょう。

 フィリピンの人々、特に山岳民族は、家系をたどり、親戚を見つけるのが大好きです。世界にはそのような文化が多くあります。日本人も、こと、自分たちの家系については、あながち興味が無いわけでもないことでしょう。

 ユダヤ人の系図好きも、旧約聖書を見れば明らかです。しかし、一見、無機質で退屈に見えるこのイエスの系図には、マタイの、ひいては神の明確な意図が見て取れるのです。ここに名前の記されている人々には、様々な人々が含まれています。地位あり、富あり、名声あり、非常に輝かしく誇らしい人々があります。しかし、正史にその名の記録すら残っていない、バビロン捕囚後に没落した、無名の人々があります。そればかりか、一般的な意味を超えた、正史に明らかに「罪人」として記録されている。今風にいえばスキャンダラスな人々も含まれています。さらに、当時のユダヤ文化では、家系図として、記載が避けられがちな「二級市民」「三級市民」の名前も見られるのです。

 しかし、マタイがこれらの名前を、あえて選んで記した。そして聖霊がそれを導いた背景には、明確な意図が読み取れます。イエスはあらゆる人々を象徴する存在として生まれました。そして、あらゆる人々の「王」として生まれました。ユダヤ人にとっては、まさに旧約聖書に約束された「王」であり、異邦人にとっても、社会的弱者にとっても、あらゆる壁を打ち破り、新しい世界をもたらす方なのです。しかも、人類の歴史の手垢にまみれた、悪と罪の象徴としての「王」ではなく、「私たちとともにおられる」(1:23)神なる王であるのです。

今週もこの方に委ね、希望を分かち合っていきましょう。

 12/9 聖書箇所 ルカの福音書1:2638 

 【説教題】    「クリスマスの神対応 マリヤ」 

1:38「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 

 クリスマス物語の中でも特に有名なエピソードと言えるマリヤの受胎告知。 

聖霊によって神の子なるイエス・キリストを身ごもることを受け入れる。それはつまり、マリヤにとっては、婚約者のヨセフに万が一理解されなかった場合、婚約を破棄されてしまうどころか、姦通罪で訴えられることも覚悟しなければならない状況でした。しかし、彼女は、突然の出来事に戸惑いながらも、み使いが告げる言葉一つ一つを信仰をもって受け止めていくのです。 

わたしたちの人生も大きな神の御計画の中に生かされているのです。しかし、自分自身の欠けや弱さを見る時にマリヤのセリフのごとく「どうして(自分に)そのようなことが起こるのでしょう。」(34節)と神の導きの不思議に触れるのではないでしょうか。しかし、神の選びとは、わたしたちの何が出来る、出来ないに関係するものではありません。なぜならば神様が導かれる出来事全てが、聖霊の力によるからです。(35節、使徒18)当時まだ少女だったマリヤにも、さらには、主の昇天の際に、あの弟子たちにも、聖霊による励ましが語られ続けました。 

わたしたちの信仰生活に必要なことは、人よりも秀でた能力や知力ではなく、この聖霊の力を信じ、受け入れるかどうかということです。 

マリヤの応答は、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)というシンプルなものでした。彼女は何か大きなことを成し遂げようと願ったのではなく、ただ主の語られたこと(御言葉)が、自分自身を通して実現するように、というものでした。これこそが、神が最も喜ばれたであろう、信仰者の応答の姿ではないでしょうか。 

12/2 ★聖書箇所★ ルカの福音書1:5~25

 【説教題】    「クリスマスの神対応 ①ザカリヤ夫婦」

1:6「ふたりとも、神の御前に正しく、      

      主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」

 ザカリヤ夫婦には跡を継ぐ子供がいないという、当時としては極めて大きな問題を抱えていました。当時のイスラエルにおいては、子どもができないことは屈辱的(神の呪いと考えられていた)なことであり、また恥であるという社会的な背景があったということが、エリサベツの言葉から伺い知ることができます。(25節)どれほど切実な思いで子どものために長年祈ってきたことでしょう。また、年齢的に子どもを諦めなくてはいけない時を迎えても、この夫婦は祈り続けてきたのではないでしょうか。そのような中で、日々変わることなく、忠実で従順な信仰が、一見何の喜びも希望もないと思われる老夫婦の日々を支えたのです。(6節)

 神様は彼らの信仰を顧みてくださって、ようやくその人生の終焉において見事開花したのです。もちろん神様のいつくしみとめぐみによって。

 彼らに与えられたのは救い主イエスの到来を告げるバプテスマのヨハネ。この老夫婦が生涯を通して貫いたその信仰が、待望の第二世代に渡ってなお一層、良き証しを立てていくのです。

 何事もスピードやスマート化を重視する社会に生きている私たちは性急に結論を出そうとする傾向が強いのですが、信仰の世界はそんなに急ぐ必要はありません。忍耐強く神様を信頼して、信仰によって誠実に歩み続けることによって、わたしたちの思いや願いを超えた世界を体験できるのです。

 年老いても決して忘れることなく顧みられ、祝されたザカリヤ夫婦のように、どのようなときでも神様に期待し、絶えず忍耐して神様を待ち望む人に目を留めてくださるのが、私たちが信じている神様ではないでしょうか。