9/9 ★聖書箇所★ ヨハネの手紙第一5:6~8

 【説教題】  「3つのあかし 

5:7-8「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時、ヨハネの語る教えとは正反対のことを主張するグループがありました。「神の子キリストが人間として来られたなんておかしい」と主張し始めたのです。しかし、ヨハネは、わたしたちが信じている主イエスはさまざまなものによってその真実が証言されている方であると言っています。そして証言するものが三つあると教えます。

①水が証言する。

 ここで言う「水」とは、洗礼を象徴しています。主イエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。もちろん主イエスは全く罪のない方でしたから、罪の赦しを受ける必要も、何かをきよめられる必要もありません。しかし、洗礼を受けられました。それは、洗礼を受けられることによって、ご自分が人として来られたことを明確に示されたのです。

②血が証言する。

 血は「いのち」を象徴します。ヨハネは福音書の中で主イエスの十字架の死をこのように描写しました。「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:34)主イエスが十字架で流されたその血によって、わたしたちは罪から解放されたのです。血は主イエスこそがまことの救い主であるということを証言しているのです。

③御霊が証言する。

 主イエスの昇天後、聖霊がひとりひとりに下った時、あの憶病だった弟子たちが大胆になって、イエスが救い主であることを証言し始めました。そして世界中に福音が広く伝えられるようになったのです、(ヨハネ14:16,26)

今年は日本各地で多くの災害が続いていますが、どのような状況においても、いつも変りなくわたしたちを愛し、救いに導いてくださる主を証し、賛美し続けましょう。

9/2 ★聖書箇所★ ヨハネ11:1~4

 【説教題】  「病むことも、幸いと言える信仰 

11:4「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のため・・

 健康ブームの波に乗って、テレビや新聞では健康食品、健康良品の広告が絶えません。わたしたちは、知らず知らずのうちに、健康は「良いこと(幸福)」で、病気は「悪いこと(不幸)」という価値観が刷り込まれているのではないでしょうか。

 聖書を開けば、イエス・キリストがたくさんの病める人々を癒された奇蹟の記事がいくつも登場します。確かに長年その人々を苦しめてきた病の痛みや苦しみから解放されることは素晴らしいことですが、イエス様は癒しと共に、神と共に生きる者としての大切な真理を教えられました。

 今日の箇所に登場するラザロは、やがて死にゆく重い病を患っていました。周囲の人々は若くして死に向かうラザロを見て、因果応報のごとく、その原因を罪と結び付けたことでしょう。しかし、イエスはそのような当時の思想に真っ向から反するかの如く、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光をうけるためです。」(4節)と慰めの言葉を告げられました。病むことの痛みと苦しみ、また死の悲しみをご存知であられる主は、この後、ラザロのために涙を流され(35節)、死からよみがえらせてくださるのです。死は人間が行くべき最終地点ではなく、その死を超えたところにわたしたちが見るべき本来の最終地点である「神の栄光」が見えてくるのです。

 「病まなければ」という詩にもあるように、病むことを通してわたしたちは神の近さを知り、神の慈しみを知り、わたしたちの人生における神の計画(摂理)の深みを知り、また、究極の慰めである復活の希望を握るものとされるのです。

死を超えていく神の栄光を仰ぎ見る経験…これこそがキリスト者の幸いです。

8/26 ★聖書箇所★ 箴言30:24~28

 【説教題】  「小さな知恵者」 

24節「この地上には小さい者が四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。

 世界には、137万種もの動物(7割は昆虫)が存在しますが、箴言には、多種多様な動物の中から選ばれし4種類の動物が知恵者として紹介されています。

①蟻(あり)「力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する」(25節) 

 小さいながらも四季を意識し、夏のうちに食糧を蓄える蟻の性質から、わたしたちも信仰の冬に備える大切さを教えられます。生活の困難さを覚えるとき、孤独感に苛まれるとき、愛の温もりを必要とするとき・・・そのような信仰の冬に備え、御言葉と祈りによる霊的な蓄えが日々必要なのです。

②岩だぬき「強くない種族だが、その巣を岩間に設ける」(26節)

 空の鳥(鷲など)から身を守るため、岩だぬきは岩場を隠れ家とします。へブル語で「身を避ける」と訳される「ハーサー」という言葉には、「霊的な避け所で神を信頼する」という意味合いがあります。わたしたちにとっての避け所となる岩は、他ならぬ神様ご自身であり、その場所で平安と安息を得るのです。

③いなご「王はないが、みな隊を組んで出て行く。」(27節)

 いなごはリーダーとなるような王は存在しませんが、集団で行動すると言う性質を持っています。団結力があるのです。共に活動することで励ましや慰め、力を得ることは、キリストの共同体に通ずるものがあります。キリストにある者たちが一つとなるために必要不可欠なのは、キリストの愛と聖霊の力です。

④やもり「手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。」(28節)

 やもりはなぜ住処として王の宮殿を選ぶのか・・・それは宮殿の中では王のゆるしなしに手をあげることも、捕まえることもできないからです。わたしたちも万軍の王なる神の家に住まうとき、主の御手に護られていることを知るのです。

8/19 ★聖書箇所★ エペソ人への手紙4:16

 【説教題】  「キリストのからだである教会」 矢部昭仁神学生

4:16「キリストによって、からだ全体は・・・愛のうちに建てられるのです。

 私たちはからだの一部分に痛みが生じたり、あるいは何か病を患うことがあれば、身体的な痛みだけではなく、精神的にも気持ちが沈み、その症状次第では将来まで不安になってしまうことがあるのではないでしょうか。そのような私たちの弱さをご存知である神は、いつも励ましの言葉を、聖書を通して教えて下さいます。

 聖書は、私たちはキリストによって一つのからだであると語ります。ですから、弱っている方がいる時、悩んでいる方がいる時、自分のことのように心を痛めてその方のために祈り、また、互いの欠けや弱さを補い合うことが出来るのです。それこそが教会という共同体のあるべき姿であり、わたしたちが示すことのできるキリストの愛の形なのです。神の家族として、ともに礼拝し、互いのために祈り合い、助け合う。地域や社会において自分の居場所を失い、愛を探し求めている方が多いこの日本において、心の安住を求めている方にこそ、そのようなキリストの愛を示す必要があるのではないでしょうか。

 また、教会は個々人にあった能力(賜物)を活かして補い合う共同体です。

人間のからだには、目は物を見る役目、口は語る役目、耳は聞く役目、とそれぞれに役目があります。そのように、キリストのからだである私たち一人ひとりにも、神様が与えて下さったそれぞれの賜物と役割があるのです。神の愛によって救われ、キリストの犠牲によって罪赦された私たちだからこそ、それぞれの違いを非難したり、裁くようなことはしません。互いに受け入れ、赦し合い、補い合い、愛し合う関係を通してキリストのからだなる教会は今日も建て上げられていくのです。

8/12 ★聖書箇所★ マルコの福音書1:1

 【説教題】  「スタート」 矢部神学生

1:1「神の子イエス・キリストの福音の初め。

 11節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。実は福音書の中で自書を「福音」と記したのはマルコだけです。そして他の3つのマタイ、ルカ、ヨハネの福音書も、マルコの福音書と同様にイエス・キリストの生涯、十字架の死と復活を書き記しているため、その四つ書簡を「福音書」と呼んでいます。

 

 「福音」または「良い知らせ」をギリシャ語でユーアンゲリオンと言います。これは、軍隊用語における役職の名称で、伝達者とも訳します。例えば、戦地で勝利を収めたとき、将軍はユーアンゲリオンと呼ばれる伝達者を呼び寄せて、「我が軍は勝ったぞ!走って伝えよ。」との命を受け走ります。彼は故郷に帰り閉ざされている門を強くたたきます。

 城壁の中で人々は日々不安の中にいたことでしょう。戦地で戦う夫や息子の安否を心配して・・・。それだけではなく、もし戦いに負けたら敵が攻めてきます。殺され、奴隷にされ、財産まで取られたら・・・そのように人々の心を不安が渦巻く日々の中、ユーアンゲリオンは町の中央に行き、人々を集めて宣言するのです。「我が軍は勝利したぞ!勝ったぞ!」と。この勝利宣言を聞いて人々はどれほどに安堵の思いに満たされることか。未だ戦地へ行った家族と対面したわけではないのに。心の中に大きな変化は確実に起きるのです。不安が平安に、悲しみは喜びに、絶望が希望に。福音を受け入れた人々の心は、様々な恐れや不安から解き放たれ、他で得ることの出来ない喜びと平安からスタートしていくのです。

 この働きこそが、ユーアンゲリオンの使命なのです。暗闇に押しつぶされそうになる人々の心に、御言葉と神の愛をもって希望という光を、良い知らせ「福音」を今週も伝えていきましょう!

8/5★聖書箇所★ マルコの福音書8:27~35

【説教題 「自分の十字架を負う(キリストの心を心とする⑤) 

 

34「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 

 弟子たちは、主イエスに対する救い主のイメージの中で、ローマの圧政からユダヤ人たちを救う新しい王としての期待が強かったようです。また、「新しく天下を取る王のそばにいれば、自分たちもやがて高い位置に就くことが出来るだろう。」と思っていました。(マルコ10:37)しかし、主イエスはそのような弟子たちに対して、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と命令しています。

①自分を捨てる

自己肯定の時代にあって、なんて古臭い表現なんだと思われるかもしれませんが、ここで言う「自分」とは、救われる前の古い自分、つまり自己中心的な自分を指します。そのような「古い自分」の終着点は主イエス・キリストの十字架です。救われた以上は、そこから先に進む必要はありません。古い自分との決別が必要です。

②自分の十字架を負う

主イエスがここで語る「十字架」とは、人生における苦難や問題を指すのではありません。十字架を負うということは、わたしたちがキリストのために負う犠牲を意味します。それは時として恥を負ったり、時間的・経済的に損を選ぶこと、不効率な手段を取ることかもしれません。他者には理解されないこともあるでしょう。そのような中で葛藤するわたしたちの心に神は聖霊を通して働かれます。

聖霊は、迷ったとき、立ち止まった時ほど、キリストご自身の十字架を想う静まりの時を与えてくださり、「イエスさまなら、ここでどうするか?あなたは一体、誰のうしろを歩みたいのか?」という問いかけを通してわたしたちの次なる一歩を変えてくださるのです。

7/29 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書4:1~30

【説教題 「一人の迷える魂を愛す(キリストの心を心とする④) 

 

4:23「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」

①反発されても(11、12節)

 この女性は、自分に声を掛けてきた不思議なユダヤ人が救い主であることをなかなか理解することが出来ませんでした。「生ける水」についてイエス様が話されても、「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか?」と反発し、さらに15節にあるように、もうのどが渇かなくなるなら、水を汲む手間が省けるからその水をくださいよ、と皮肉とも反発とも取れる言葉を返すのです。

②過去の全てを知っていても(16、18節)

 反発されたところで、主イエスは諦めません。水の話題から一転して、ついにこの女性の異性問題について指摘されたのです。主イエスは、わたしたちの過去の全ての後悔、過ち、犯した罪をご存知です。しかし、すべてを知ったうえで、変わることなくわたしたちを愛し、わたしたちの人生に影を落とす問題の根本的解決である「生ける水」を与えようとされるのです。

③決心を先延ばしにしようとしても(23~25節)

 サマリアの女性は、自分の目の前にいる人が、問題解決の道を示してくださる人だと悟りつつある中であっても、「その方が来られる時には」と、決心を先延ばしにするような、うやむやな態度に出るのです。しかし、主はそのような態度も見越したうえでこう告げます。「今がその時です。」(23節)と。サマリアの女性のように、わたしたちが“自我”という水がめを置くときは、今日、この時なのです。主イエスに倣い、どこまでも忠実に一人の魂と向き合い、愛する者へと変えられましょう。

7/22 ★聖書箇所★ マタイの福音書26:31~46

 【説教題 「祈り(キリストの心を心とする③) 

 

39「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」

 イエス・キリストは神の子であったからといって、決して十字架上の死を簡単に受け入れられたわけではありません。なぜなら、キリストは神でありながらも、私たちと同じ弱い人間性や脆さを身にまとい、父なる神に従うことの困難さを身に覚える身であられたからです。だからこそ、十字架という霊的試練に打ち勝つためには祈りが必要不可欠だったのです。

 キリストの祈りのことばの中心のあるものは「あなたのみこころのように」(39,42節)でした。44節を見ると「もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。」とあります。このことから見ても、キリストでさえ、神の御心に従うには、三度の祈りが必要だったのです。また、キリストが受け止めなくてはならなかった父なる神の御心とは、人々の救いのために受ける苦しみと死でした。誰でも自分を愛してくれる人のために苦しむことは出来るでしょう。しかし、主が受けられた苦しみは、主ご自身に対して、蔑み、罵り、この世から除外しようと躍起になっている人々のための苦しみだったのです。父なる神の愛は、このような人々に向けられていたのです。だからこそ、キリストが悲しみもだえながら祈られた祈りに対しても黙認という形で、これが御心なのだと示されました。

 わたしたちは様々な事柄を父なる神様に祈ることがゆるされています。時には自分が願う通りにならないこともあるでしょう。キリストのように御心に従えるようになるまで何度も神に問い続けることもあるでしょう。そのような中で、わたしたちは深い神の御心を悟っていくのです。静かな沈黙の中にも、そこに込められた父なる神の愛の答えがあるのです。わたしたちが日々積み重ねていく祈りは、父の御心に近づく信仰の階段を一歩一歩上がっていくようなものなのです。

7/15 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書5:1~9a

 【説教題 「憐み(キリストの心を心とする②) 

 

5:6 イエスは・・・彼に言われた。「よくなりたいか。」

 ベテスダの池というのは、エルサレムの羊の門の近くにあるのですが、池のある場所は相当深い所で、実際に目にした印象としては、とても暗い空間のように感じました。実際、その場所には、3節にあるように大勢の病人が伏せていたのです。中でも38年病気にかかっている男性に、主イエスは「よくなりたいか」と尋ねられました。聞くまでもなく、彼が病気の治癒を求めていることは明らかです。しかし、彼は素直に「よくなりたいです」と答えることが出来ないばかりか、水がかき回されるタイミングで自分を運んでくれる人がいない、と責任転嫁するような返答をしてしまいます。納得のいかない人生に対してのやるせなさ、苛立ちを隠すことができなかったのでしょう。しかし、主イエスは、そのように希望を持てない彼に対して「そんなことでは駄目だ」と叱責したりはしません。深い憐れみをもって、行き場のない彼の心の叫びを汲み取られたのです。そして「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と語られました。「起きて」というのは復活を意味する言葉であり、「床を取り上げて」とは、これまでの病に伏せてきた人生にピリオドを打つことを意味する癒しの宣言です。この言葉によって、病が癒され、この男性は完全復活を果たすのです。

 ユダヤ人の祭りの日、多くのユダヤ人たちが祭りに参加するべく神殿に足を運ぶ中、主イエスは、祭りから取り残され、人々からも忘れ去られたこの男性に会うためだけにベテスダの池に向かわれました。わたしたちそれぞれにも、主イエスと出会うべき時、また、主の深い憐れみを体験する時があります。そして、その経験を経て、わたしたちもまた、深い憐れみの心を主に教えられつつ、隣人に愛を届ける者とされていくのです。

7/8 ★聖書箇所★ ピリピ人への手紙2:1~11

 【説教題 「謙遜(シリーズ:「キリストの心を心とする」①) 

 

2:6,7 「キリストは、神の御姿である方なのに、・・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」

 今日の箇所の後半部分(6節以降)は、特にクリスマスの時期によく読まれ、私たちが神の御子の受肉(下降)、受難(十字架)、栄化(高挙)について知るときに欠かすことの出来ない箇所だと言えます。しかし、なぜこれが書かれたのか―それは、わたしたちが一致するためなのです。

 パウロは、一致を妨げるものとして「自己中心」と「虚栄」を挙げました。どちらも心が自分へと向いていくことです。どこまでも自分のことに

関心が向けられていく「自己中心」、さらには他社より自分のほうが上に立ちたくてたまらない、自分のプライドにしがみついて、実質以上のものと認められたいという「虚栄」・・・これらのものは、他者との比較や、対抗心ばかりを生み出し、結果的に妬みや怒りを引き起こしてしまいます。結局のところ、自分にばかり目を向け、他者に対して関心を向けることが出来ないわたしたちの罪がそうさせるのです。

 そのような私たちに、パウロは謙遜の最高の模範として主イエス・キリストを取り上げています。キリストは目に見えない神のかたちであり、万物を造られた創造主です。このお方が、神のあり方を捨てられないとは考えませんでした。これは自分のプライドにしがみつき、それを捨てることが出来ない頑固な罪人の私たちに何かを訴えかけてくるのです。天の栄光をかなぐり捨てて、神の権利を放棄し、人の姿としてしもべの身分に徹し、私たちのために最も残酷な十字架の死をも忍んでくださった。このキリストの謙遜が、私たちの模範であり、教会一致の土台です。

 私たちがこのキリストの謙遜の模範に倣うことを心がけなければ、教会は健康でいることはできないのです。

7/1 ★聖書箇所★ 使徒の働き4:29~33

 【説教題】  「聖霊に満たされた教会 本田牧師

4:31 「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」

 私たちの教団、そして教会は聖霊の働きを強調します。それは、誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することすらできないからです。教会の歩みは、どのような困難があっても主を見上げ、上からの力を求め、大胆に歩むものです。そういう意味で、使徒の働きにある初代教会の姿を見て、学ぶことはとても大切なことなのです。今日は、初代教会の姿から、聖霊に満たされた教会とはどのような教会なのか、私たちの教会はどうあるべきなのかを学んでいきたいと思います。まず第一に彼らは大胆に語る教会でした。どんな迫害の中でも彼らは主を求め、宣教の力が与えられるように求めました。困難からの脱出、問題の解決にとどまらず、むしろ大胆に宣教できるように求めたのです。そして第二に彼らは互いに仕え合う教会でした。彼らは全てを共有し、一人も乏しい者はいませんでした。それは物質的なものだけではなく、彼らの中に弱さやつまづきを覚える者に対して受け入れ、互いに祈り合っていたことも示しています。つまり教会とは、キリストの姿に倣うものであると言うことができるのです。主イエスは誰に反対されても、命狙われようとも神の国を解き明かし、罪の赦しを宣言されました。罪人や病人に手を置いて癒されました。そして人間が神との関係を回復するために十字架にかかり、三日目によみがえられました。教会はそのことの証人なのです。

 私たち一人一人が聖霊に満たされる時、教会は主イエスの歩まれたように歩むことができるのです。福音を大胆に語り、人の弱さや足らなさを受け入れ、祈り合い、仕え合うことができるようになるのです。その時、教会は一致し、前進することができるのです。この朝、主を求め、聖霊に満たされましょう!

6/24 ★聖書箇所★ コリント人への手紙 第二1:3~10

 【説教題】  「慰めの神」 

1:4 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」

 わたしたちが慰めを必要とするのは、苦しみのただ中にあるときではないでしょうか。一言で苦しみと言っても、内容はさまざまで、今回の地震のような自然災害や、病気、また過去の自分の行いによって受ける苦しみもあれば、他者の行為によって受ける苦しみもあります。そのような人為的苦しみだけではなく、パウロが受けたように、キリスト者であるが故に受ける苦しみも存在します。しかし、ここでパウロは「苦しみ」そのものに焦点を当ててはいません。その苦しみの中でもたらされる慰めと救いの豊かさを語っているのです。

 人はなぜ苦しみを経験するのでしょうか。それは、まず、その人自身が神の慰めを経験するためです。そして慰めを経験した人は、今度は他の誰かを慰めることが出来るようになるのです。

 今回の地震を通して、知らず知らずのうちにストレスと傷を抱え込んでいるわたしたちの心は、「感謝」と口に出すことさえ、難しくなっているのではないでしょうか。実際に、私自身も、「牧師だからと言って、無理をして信仰的な言葉を語らなくてもいい。牧師も被災者なんだから。」という言葉に大きな慰めを受けました。そう語ってくださったのは、かつての阪神・淡路大震災で、家が倒壊した先生でした。

 慰めを受けた者が、受けるに留まらず、今度は他の誰かを慰める者とされていく。これは、「苦しみ」そのものが生み出すのではなく、神から受けた「慰め」がもたらす交わりの豊かさであると、聖書は教えます。

 この安息の日に、わたしたちは、まず主の前に背負って来た重荷を下ろし、豊かな慰めと、新たに立ち上がる力をいただきましょう。

6/17 ★聖書箇所★ 詩篇3篇

 【説教題】  「神に護られて眠る」 

3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。

 この詩は、イスラエルの王ダビデが、息子のアブシャロムの反逆によって王宮を追われ、逃亡したときに作られたものです。「なんと私の敵がふえてきたことでしょう。」(1節)とあるように、息子だけではなく、王であるダビデに追従していた者たちが、敵となって襲い掛かかってくる恐怖感や孤独感・・・。しかし、そのような緊迫した状況にありながらも、ダビデの心は、神に対する賛美(3節)、神への祈りと対話(4節)、平安(5節)、救いの確信と宣言(8節)で満ちているのです。

 周囲の声は「彼に神の救いはない」(2節)という、否定的な言葉でした。ダビデがここでのセリフを引用しながら訴えているということは、彼の心に深く突き刺さった言葉だったのでしょう。しかし、ダビデは、その否定的な言葉ではなく、神ご自身に心を向け、神の救いを期待し、信頼して耐え忍んでいるのです。それだけに留まりません。ダビデにとっては、到底眠れるような状況でないにも関わらず、彼は神が与えてくださる平安のうちに眠ることが出来るのです。苦難が激しい時に人が求めるのは「ごく普通の日常生活」ではないでしょうか。神はここで、ダビデに普通の眠りを取り戻してくださったのです。

 信仰があれば、試練は無くなるのか。そうではありません。神は信じる信仰の有無にかかわらず、あらゆる試練は突如としてわたしたちを襲います。しかし、そのような時ほど、わたしたちは信仰者であることに幸いを覚えるのです。それは、わたしたちのため息を聞き、涙をぬぐってくださる主が共におられることを知るからです。四面楚歌のような状況であっても、主がわたしたちを取り囲む「盾」となってくださり、あらゆる出来事からわたしたちを護り導いてくださる真実なお方なのです。神に護られいる幸いを感謝しつつ、わたしたちは今日も安心して眠りに就くことができるのです。

6/10 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書20:24~31

 【説教題】  「どこで悩み、どこで答えを得るのか」 

20:26 イエスが来て、彼らの中に立って、平安があなたがたにあるように。」と言われた。

 復活された主イエス・キリストに出会い損ねてしまったトマス・・・他の弟子たちが主イエスとの再会の喜びを語る一方で、彼は自分の手で十字架の傷跡に直接触れなければ、決して信じることが出来ない。(25節)と言い放ってしまいます。

 しかし、他の箇所を見ても明らかなように、彼はこれまで熱心に主イエスと共に歩んできた人物だったのです。(ヨハネ11:16、ヨハネ14:25)それにも関わらず、よりによって、一番の喜びと感動の瞬間に立ち会うことができなかったという、悔しく、寂しい心が、トマスを頑なにしたのかもしれません。

 それから8日後に、主は再びトマスを含む弟子たちのもとへ訪れてくださいました。そして、他の弟子たちに現れた時と同じように、再び「平安があるように」(26節)と語り掛けられ、トマスに対して責めるでもなく、彼の要求通りに、主ご自身からご自分の身体を差し出されるのです。

 この箇所では、トマスの疑いやすい性格が問題だったわけではありません。わたしたちが、どこで悩み、どこで迷うのか?その場所こそが教会なのだと教えています。わたしたちは、交わりから離れるときに、心に迷いや疑いが生じてくるのです。ですから、迷いや疑いがあるときこそ、教会での交わりが必要なのです。

 「信じる(=信仰)」ということは、認識すること、悟ること、理解し、把握することがすべてではなく、神との交わり「疑問」や「分からない」こと、神との交わりの中で問い続ける過程もそこに含まれるのです。分からなくなった時ほど、神の家族との交わりの中で素直に助けられましょう。祈ってもらう、話を聞いてもらう、励まされる、その交わりの豊かさのただ中に、復活の主イエス・キリストも訪れてくださいます。

6/3 ★聖書箇所★ 使徒の働き4:1~21

 【説教題】  「キリストと共に歩む」  

4:13「ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」

 聖霊降臨後、ペテロやヨハネをはじめとする弟子たちは、主の霊に励まされて、大胆に主の御言葉を語り出します。しかし、祭司や宮の守衛長、サドカイ人たちなどの反対勢力に囲まれて、議会にかけられ、尋問を受けました。

 思い返せば、この数か月前はイエス・キリストが同じ議会にかけられ、ペテロも近くで見守っていたのです。そして彼は、十字架に架けられていくイエス・キリストの姿を見て、恐れが生じ、三度もイエスを知らないと、自分の保身のために愛する師を裏切ってしまいました。

 そのペテロが、今や、十字架に架けられたイエス・キリストと同じ議会に立たされ、たくさんの権力者、宗教的指導者に囲まれた中で、今度は主イエス・キリストの復活の証人として、堂々と弁明する立場に立つのです。

 彼らの言葉に人々は圧倒され、返す言葉もなく、釈放を決めます。人々は、彼らの大胆さと無学な、普通の人であったことに驚いたと聖書は記していますが、はたして本当に無学だったのでしょうか?

 確かに、パウロのような学歴はなかったかもしれません。しかし、彼らには、主イエス・キリストと共に過ごした時間がありました。主と共に生活していく中で、主の語られる御言葉をよく耳にしていたことでしょう。そして、聞いていた御言葉の成就を信じ、待ち望んでいたのです。

 御言葉が生活に根付き、聖霊の助けに励まされていく時に、わたしたちも弟子たちのようなキリストの証人へと造り上げられていくのです。御言葉を語ることだけが伝道ではありません。主と共に歩み、いきいきと喜びをもって信仰生活を送る、これこそが、聖霊に満たされたキリストの証人の姿なのです。