7/15 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書5:1~9a

 【説教題 「憐み(キリストの心を心とする②) 

 

5:6 イエスは・・・彼に言われた。「よくなりたいか。」

 ベテスダの池というのは、エルサレムの羊の門の近くにあるのですが、池のある場所は相当深い所で、実際に目にした印象としては、とても暗い空間のように感じました。実際、その場所には、3節にあるように大勢の病人が伏せていたのです。中でも38年病気にかかっている男性に、主イエスは「よくなりたいか」と尋ねられました。聞くまでもなく、彼が病気の治癒を求めていることは明らかです。しかし、彼は素直に「よくなりたいです」と答えることが出来ないばかりか、水がかき回されるタイミングで自分を運んでくれる人がいない、と責任転嫁するような返答をしてしまいます。納得のいかない人生に対してのやるせなさ、苛立ちを隠すことができなかったのでしょう。しかし、主イエスは、そのように希望を持てない彼に対して「そんなことでは駄目だ」と叱責したりはしません。深い憐れみをもって、行き場のない彼の心の叫びを汲み取られたのです。そして「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と語られました。「起きて」というのは復活を意味する言葉であり、「床を取り上げて」とは、これまでの病に伏せてきた人生にピリオドを打つことを意味する癒しの宣言です。この言葉によって、病が癒され、この男性は完全復活を果たすのです。

 ユダヤ人の祭りの日、多くのユダヤ人たちが祭りに参加するべく神殿に足を運ぶ中、主イエスは、祭りから取り残され、人々からも忘れ去られたこの男性に会うためだけにベテスダの池に向かわれました。わたしたちそれぞれにも、主イエスと出会うべき時、また、主の深い憐れを体験する時があります。そして、その経験を経て、わたしたちもまた、深い憐れみの心を主に教えられつつ、隣人に愛を届ける者とされていくのです。

7/8 ★聖書箇所★ ピリピ人への手紙2:1~11

 【説教題 「謙遜(シリーズ:「キリストの心を心とする」①) 

 

2:6,7 「キリストは、神の御姿である方なのに、・・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」

 今日の箇所の後半部分(6節以降)は、特にクリスマスの時期によく読まれ、私たちが神の御子の受肉(下降)、受難(十字架)、栄化(高挙)について知るときに欠かすことの出来ない箇所だと言えます。しかし、なぜこれが書かれたのか―それは、わたしたちが一致するためなのです。

 パウロは、一致を妨げるものとして「自己中心」と「虚栄」を挙げました。どちらも心が自分へと向いていくことです。どこまでも自分のことに

関心が向けられていく「自己中心」、さらには他社より自分のほうが上に立ちたくてたまらない、自分のプライドにしがみついて、実質以上のものと認められたいという「虚栄」・・・これらのものは、他者との比較や、対抗心ばかりを生み出し、結果的に妬みや怒りを引き起こしてしまいます。結局のところ、自分にばかり目を向け、他者に対して関心を向けることが出来ないわたしたちの罪がそうさせるのです。

 そのような私たちに、パウロは謙遜の最高の模範として主イエス・キリストを取り上げています。キリストは目に見えない神のかたちであり、万物を造られた創造主です。このお方が、神のあり方を捨てられないとは考えませんでした。これは自分のプライドにしがみつき、それを捨てることが出来ない頑固な罪人の私たちに何かを訴えかけてくるのです。天の栄光をかなぐり捨てて、神の権利を放棄し、人の姿としてしもべの身分に徹し、私たちのために最も残酷な十字架の死をも忍んでくださった。このキリストの謙遜が、私たちの模範であり、教会一致の土台です。

 私たちがこのキリストの謙遜の模範に倣うことを心がけなければ、教会は健康でいることはできないのです。

7/1 ★聖書箇所★ 使徒の働き4:29~33

 【説教題】  「聖霊に満たされた教会 本田牧師

4:31 「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」

 私たちの教団、そして教会は聖霊の働きを強調します。それは、誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することすらできないからです。教会の歩みは、どのような困難があっても主を見上げ、上からの力を求め、大胆に歩むものです。そういう意味で、使徒の働きにある初代教会の姿を見て、学ぶことはとても大切なことなのです。今日は、初代教会の姿から、聖霊に満たされた教会とはどのような教会なのか、私たちの教会はどうあるべきなのかを学んでいきたいと思います。まず第一に彼らは大胆に語る教会でした。どんな迫害の中でも彼らは主を求め、宣教の力が与えられるように求めました。困難からの脱出、問題の解決にとどまらず、むしろ大胆に宣教できるように求めたのです。そして第二に彼らは互いに仕え合う教会でした。彼らは全てを共有し、一人も乏しい者はいませんでした。それは物質的なものだけではなく、彼らの中に弱さやつまづきを覚える者に対して受け入れ、互いに祈り合っていたことも示しています。つまり教会とは、キリストの姿に倣うものであると言うことができるのです。主イエスは誰に反対されても、命狙われようとも神の国を解き明かし、罪の赦しを宣言されました。罪人や病人に手を置いて癒されました。そして人間が神との関係を回復するために十字架にかかり、三日目によみがえられました。教会はそのことの証人なのです。

 私たち一人一人が聖霊に満たされる時、教会は主イエスの歩まれたように歩むことができるのです。福音を大胆に語り、人の弱さや足らなさを受け入れ、祈り合い、仕え合うことができるようになるのです。その時、教会は一致し、前進することができるのです。この朝、主を求め、聖霊に満たされましょう!

6/24 ★聖書箇所★ コリント人への手紙 第二1:3~10

 【説教題】  「慰めの神」 

1:4 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」

 わたしたちが慰めを必要とするのは、苦しみのただ中にあるときではないでしょうか。一言で苦しみと言っても、内容はさまざまで、今回の地震のような自然災害や、病気、また過去の自分の行いによって受ける苦しみもあれば、他者の行為によって受ける苦しみもあります。そのような人為的苦しみだけではなく、パウロが受けたように、キリスト者であるが故に受ける苦しみも存在します。しかし、ここでパウロは「苦しみ」そのものに焦点を当ててはいません。その苦しみの中でもたらされる慰めと救いの豊かさを語っているのです。

 人はなぜ苦しみを経験するのでしょうか。それは、まず、その人自身が神の慰めを経験するためです。そして慰めを経験した人は、今度は他の誰かを慰めることが出来るようになるのです。

 今回の地震を通して、知らず知らずのうちにストレスと傷を抱え込んでいるわたしたちの心は、「感謝」と口に出すことさえ、難しくなっているのではないでしょうか。実際に、私自身も、「牧師だからと言って、無理をして信仰的な言葉を語らなくてもいい。牧師も被災者なんだから。」という言葉に大きな慰めを受けました。そう語ってくださったのは、かつての阪神・淡路大震災で、家が倒壊した先生でした。

 慰めを受けた者が、受けるに留まらず、今度は他の誰かを慰める者とされていく。これは、「苦しみ」そのものが生み出すのではなく、神から受けた「慰め」がもたらす交わりの豊かさであると、聖書は教えます。

 この安息の日に、わたしたちは、まず主の前に背負って来た重荷を下ろし、豊かな慰めと、新たに立ち上がる力をいただきましょう。

6/17 ★聖書箇所★ 詩篇3篇

 【説教題】  「神に護られて眠る」 

3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。

 この詩は、イスラエルの王ダビデが、息子のアブシャロムの反逆によって王宮を追われ、逃亡したときに作られたものです。「なんと私の敵がふえてきたことでしょう。」(1節)とあるように、息子だけではなく、王であるダビデに追従していた者たちが、敵となって襲い掛かかってくる恐怖感や孤独感・・・。しかし、そのような緊迫した状況にありながらも、ダビデの心は、神に対する賛美(3節)、神への祈りと対話(4節)、平安(5節)、救いの確信と宣言(8節)で満ちているのです。

 周囲の声は「彼に神の救いはない」(2節)という、否定的な言葉でした。ダビデがここでのセリフを引用しながら訴えているということは、彼の心に深く突き刺さった言葉だったのでしょう。しかし、ダビデは、その否定的な言葉ではなく、神ご自身に心を向け、神の救いを期待し、信頼して耐え忍んでいるのです。それだけに留まりません。ダビデにとっては、到底眠れるような状況でないにも関わらず、彼は神が与えてくださる平安のうちに眠ることが出来るのです。苦難が激しい時に人が求めるのは「ごく普通の日常生活」ではないでしょうか。神はここで、ダビデに普通の眠りを取り戻してくださったのです。

 信仰があれば、試練は無くなるのか。そうではありません。神は信じる信仰の有無にかかわらず、あらゆる試練は突如としてわたしたちを襲います。しかし、そのような時ほど、わたしたちは信仰者であることに幸いを覚えるのです。それは、わたしたちのため息を聞き、涙をぬぐってくださる主が共におられることを知るからです。四面楚歌のような状況であっても、主がわたしたちを取り囲む「盾」となってくださり、あらゆる出来事からわたしたちを護り導いてくださる真実なお方なのです。神に護られいる幸いを感謝しつつ、わたしたちは今日も安心して眠りに就くことができるのです。

6/10 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書20:24~31

 【説教題】  「どこで悩み、どこで答えを得るのか」 

20:26 イエスが来て、彼らの中に立って、平安があなたがたにあるように。」と言われた。

 復活された主イエス・キリストに出会い損ねてしまったトマス・・・他の弟子たちが主イエスとの再会の喜びを語る一方で、彼は自分の手で十字架の傷跡に直接触れなければ、決して信じることが出来ない。(25節)と言い放ってしまいます。

 しかし、他の箇所を見ても明らかなように、彼はこれまで熱心に主イエスと共に歩んできた人物だったのです。(ヨハネ11:16、ヨハネ14:25)それにも関わらず、よりによって、一番の喜びと感動の瞬間に立ち会うことができなかったという、悔しく、寂しい心が、トマスを頑なにしたのかもしれません。

 それから8日後に、主は再びトマスを含む弟子たちのもとへ訪れてくださいました。そして、他の弟子たちに現れた時と同じように、再び「平安があるように」(26節)と語り掛けられ、トマスに対して責めるでもなく、彼の要求通りに、主ご自身からご自分の身体を差し出されるのです。

 この箇所では、トマスの疑いやすい性格が問題だったわけではありません。わたしたちが、どこで悩み、どこで迷うのか?その場所こそが教会なのだと教えています。わたしたちは、交わりから離れるときに、心に迷いや疑いが生じてくるのです。ですから、迷いや疑いがあるときこそ、教会での交わりが必要なのです。

 「信じる(=信仰)」ということは、認識すること、悟ること、理解し、把握することがすべてではなく、神との交わり「疑問」や「分からない」こと、神との交わりの中で問い続ける過程もそこに含まれるのです。分からなくなった時ほど、神の家族との交わりの中で素直に助けられましょう。祈ってもらう、話を聞いてもらう、励まされる、その交わりの豊かさのただ中に、復活の主イエス・キリストも訪れてくださいます。

6/3 ★聖書箇所★ 使徒の働き4:1~21

 【説教題】  「キリストと共に歩む」  

4:13「ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」

 聖霊降臨後、ペテロやヨハネをはじめとする弟子たちは、主の霊に励まされて、大胆に主の御言葉を語り出します。しかし、祭司や宮の守衛長、サドカイ人たちなどの反対勢力に囲まれて、議会にかけられ、尋問を受けました。

 思い返せば、この数か月前はイエス・キリストが同じ議会にかけられ、ペテロも近くで見守っていたのです。そして彼は、十字架に架けられていくイエス・キリストの姿を見て、恐れが生じ、三度もイエスを知らないと、自分の保身のために愛する師を裏切ってしまいました。

 そのペテロが、今や、十字架に架けられたイエス・キリストと同じ議会に立たされ、たくさんの権力者、宗教的指導者に囲まれた中で、今度は主イエス・キリストの復活の証人として、堂々と弁明する立場に立つのです。

 彼らの言葉に人々は圧倒され、返す言葉もなく、釈放を決めます。人々は、彼らの大胆さと無学な、普通の人であったことに驚いたと聖書は記していますが、はたして本当に無学だったのでしょうか?

 確かに、パウロのような学歴はなかったかもしれません。しかし、彼らには、主イエス・キリストと共に過ごした時間がありました。主と共に生活していく中で、主の語られる御言葉をよく耳にしていたことでしょう。そして、聞いていた御言葉の成就を信じ、待ち望んでいたのです。

 御言葉が生活に根付き、聖霊の助けに励まされていく時に、わたしたちも弟子たちのようなキリストの証人へと造り上げられていくのです。御言葉を語ることだけが伝道ではありません。主と共に歩み、いきいきと喜びをもって信仰生活を送る、これこそが、聖霊に満たされたキリストの証人の姿なのです。

5/27 ★聖書箇所★ ヨハネ21:15~19

 【説教題】  「変わらない愛の招き」 

21:17 「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛します。」

 「ヨハネの子シモン」これはペテロの本名ですが、イエス様がペテロをこう呼ぶ時というのはペテロが信仰告白をした時(マタイ16:15~18)であり、献身の招きの時(マタイ4:19)でもありました。あの時と同じ場所、同じ状況で、イエス様はペテロに帰るべき原点を思い返す機会を与えられています。

 イエス様を3度も知らないと言ってしまったペテロの過去の過ちについて、主はそれを責めることも、咎めることもなさいませんでした。ただ、問われたことは、「わたしを愛しますか」(15節、16節、17節)だったのです。ペテロの後悔の中で、一番大きかったことは、イエス様を愛すると言いながら、結局一番愛していたのは自分自身だったということでしょう。十字架に向かって苦しまれていくイエス様を眺めていると、次は、自分の番かもしれないという恐れが生じ、イエス様のことを知らないと3度も裏切ってしまったのです。そのようなペテロに対してイエス様は同じように3度わたしを愛するかと問われました。

 ペテロのように、失敗と後悔が日々積み重なっていくわたしたちです。到底、胸を張って「あなたを愛します」とは言えません。しかし、そのようなわたしたちの未熟さや欠け、弱さを知り尽くした主は、見離すことなく、どこまでもわたしたちを愛し抜かれ、変わらない深い愛に招いておられます。

 「わたしの羊を飼いなさい」-主は、わたしたちの力や可能性にかけておられるのではありません。罪と死を取り除いて、きよい者とされたわたしたちの中に、すでに神の息吹である聖霊の力を与えてくださいました。その聖霊がわたしたちを完成に導いてくださるのです。そう断言された私たちの主に、ただ信じて委ねるだけなのです。

5/20 ★聖書箇所★ ガラテヤ人への手紙5:16~26

 【説教題】  「御霊によって歩みなさい」 

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。

そうすれば。決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 「イエス様を知っている(信じている)ということと、イエス様と共に歩むということは、また別なんやで。」とある先生がおっしゃってくださいました。

 わたしたちは信じているように生きたいと願うのですが、社会とうまく調和していこうとするときに、どこかで「信じていることを心のうちに秘めて、周りと折り合いをつけながら生きるほうが賢い選択なのではないか。」という考えに誘導されてしまいそうになります。しかし、そのような私たちに対して、パウロははっきりと「御霊によって歩みなさい」(16節)と命令しています。

 御霊によって歩むということはどううことないのか?その実践として、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶように教えられています。(22~23節)これらは、私たちの内側にあって形作られていく私たちの人間性、品性というようなものです。つまり、私たちがキリストの者とされていくことは、何か人間離れした、特別な存在になることではなく、むしろ本来あるべき人間の姿に近づいていく、そのような真の人間性の回復、品性の成熟を意味しています。

 私たちが生きているこの時代は、まさに人間の心が失われつつある時代です。家族や友人の痛みや悲しみに対して共感出来ないどころか、無関心な自分の姿に直面します。

いつも頭にあるのは、お金に関すること、キャリアのこと、周囲からどう見られているか、

年齢問わずにどんどん歪んでいく倫理感、人の心を思いはかることのできない浅薄さ、

その場限りの空虚な言葉・・・

 しかしそんな時代のただ中にあって、御言葉は私たちに御霊によって歩めと命じ、御霊の実を結ぶ生き方へと私たちを導き出すのです。

5/13 ★聖書箇所★ 使徒の働き1:3~8

 【説教題】  「多彩な助け主」 

ヨエル書2:28-29その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は予言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。・・・しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

 来週のペンテコステの日に向けて2週連続で聖霊のお話を致します。クリスマス、イースターと同様、キリスト教にとっての三大記念日の一つです。一般的にはあまり知られておりませんが、実はこのペンテコステは、わたしたちにとって、とても関係の深い出来事なのです。

 復活の主イエス・キリストは、弟子たちをすぐに証人とされたのではなく、約束の賜物である聖霊を受けるまでエルサレムで待つように言われました。そして、イエス様の昇天後50日目に聖霊を一人一人に注がれました。

 神様は、主イエスの昇天後、また主イエスのような救い主や、あるいは旧約聖書の預言者や士師たちのような、一歩抜きん出た、カリスマ性のあるリーダーを送って、その人の力で救いを押し進めるというやり方はなさいまでんでした。逆にペンテコステからは、ここにいるみんながリーダーなのだと、聖霊を私たちに遣わすということによって、一人一人を造り変え、この私たちを用いて、この地上に福音を広めるようにされました。

 宗教改革者のルターは、「キリストに従う者は、皆、小さなキリストになる」と言いましたが、聖霊を受ける者は皆、ある意味、皆が主イエスの分身になっていくのです。そしてその小さなキリストは、主イエスがなされたことと同じことをなしていく。ペンテコステ以降、弱いこのわたしたちの内側が、同時に神の住みかとなり、私たちが、それぞれの多彩な個性、その違いをむしろ生かして、神様の救いの歴史を推し進めていく、その最前線に立つようにされたのです。

 さあ、聖霊の力を受けて、今週もそれぞれの地へ遣わされてまいりましょう。

5/6 ★聖書箇所★ 伝道者の書1:1~18、12:1、イザヤ43:

4、ヨハネ14:19

 【説教題】  「むなしい人生からの解放」 

12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 「伝道者の書」という書物は、聖書66巻の中でも異彩を放つ一冊で、ひたすら「人生はむなしい、生きることは儚い」と語られ続けています。さて、私たちが人生をむなしく感じる時とは、いったいどのような時でしょうか。目指していた夢が閉ざされた時、一生懸命に励んで、人生を懸けてきたきたものの意味を失った時、築き上げて来たものが崩れ去った時、今まで信頼していた人から裏切られた時、愛する者との別れを経験した時、大きな挫折を味わった時などではないでしょうか。

 しかしある意味、むなしさを味わうことが、わたしたちの心の「防衛本能」の一つであるのではないかと考えさせられます。期待しすぎて落ち込みすぎることがないよう、あるいは信頼しすぎて裏切られたときのショックを和らげるために、あらかじめこころに「どうせこれは無理でしょう」という諦めの引き出しを持ち合わせているのです。そういう心の作用がわたしたちをむなしさの中にいつまでもいつまでもとどめていくのではないでしょうか。しかし、そのようなむなしさを抱え続けたままでは、到底生きていくことは出来ない。人間とはそのような脆さ、弱さを持ち合わせているのです。

 だからこそ、そのようなむなしさからわたしたちを解放する、充実した人生があることを聖書は教えます。それはわたしたちの努力によって勝ち取るものではなく、父なる神との出会い、また、愛の現れである神の子イエス・キリストとの出会いによるものです。わたしたちを愛してやまない神がおられる。わたしたちの存在を肯定し、意味を与え、価値を与え、今日も命を与えて私たちを生かす神がおられる。この神の愛が、イエス・キリストによってわたしたちに現わされたのです。教会はこのことを知るために、実感するために、そして伝えるためにあるのです。