1/20 聖書箇所 マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り④」  

10節「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」 

 天において行われている神様のみこころが地上でも実現しますようにというお祈りです。日々わたしたちはこのように祈り、神様のみこころを求めて、従おうとしているにもかかわらず、現実は「私のお心」>「神様のみこころ」であったり、みこころを教えてくださいと必死に聖書のページをめくっては、どこかで自分の決断する背中を押してほしいみことばを探すあまり、平気で聖書の文脈を無視したりすることがありませんか。さらには、第三者から、「それって本当にみこころなの?」と言われると、「みこころ」という、とても強い権威の響きゆえに、本当にこの決断は正しかったのかとみるみるうちに不安に陥ってしまうのです。

 しかし、神様のみこころというのは、たとえ人間の欲や身勝手な決断で突き進んでしまったとしても、それによって大きく歪められるほど小さなものではありません。神様は人知をはるかに超えた、驚くべき力をもって、ご自分の目的のためにあらゆる事柄を回復なさるお方なのです。(創世記45:4~5、7~8)

 また、神様のみこころというのは、人間の時間枠ではなく、神様の時間枠によって導かれていくのです。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)とあります。わたしたちが祈りながら、神様に与えられたその期間を過ごしていくことこそが、この祈りが果たす大きな役割なのです。

 「神様のみこころを祈る」ということ、それは、時として、天で行われているみこころが自分のねがうものではなかったとしても、その願いを手放す決断を選び取ることができますように、という覚悟も含んだ祈りです。自分の願いをはるかに超えて働かれる、美しき天の御業を賛美しつつ、今日もわたしたちに降り注がれる主の愛に生かされて、神様のみこころを祈り求めてまいりましょう。

1/13 聖書箇所 マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り③」  

6:10「御国が来ますように。」 

 ここから主の祈りは、具体的で日常的なことに向かっていきます。「御国」から、「地」のこと、「糧」のことというように、どんどんわたしたちの身近なことに迫ってきます。つまり、信仰と具体的な日常の生活が密接なことなのだと改めて認識させてくれる祈りなのです。

 「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:14,15)神の国を間近に見るとき、悔い改め、つまり生き方の方向転換の決断が求められます。主イエスを信じるということは、単なる思い付きや一時の感情のことではなく、御国の建設のための担い手として立ち上がることなのです。

 では、御国(神の国)とは、何なのでしょう。それは神様の支配を指します。神様を想い、神と人々を愛し、交わり、学び、働き、仕えていくときに、御国がそこに広がっていくのです。「御国が来ますように」と祈るクリスチャンは、自分が置かれている場所で神の国建設に励むのです。ある人は医療の現場で、ある人はトラックを運転しながら、または教育の現場、畑を耕しながら・・・家庭内では父親、または母親、子として神の国を建設するとはどういうことだろうかと考えながら、問い続けながら生きるのです。その生き方は、周囲に影響を及ぼします。「なぜあの人は、毎週日曜日の礼拝を大切にするのか」「なぜ流行りの占いに行こうとしないのか」「こんなにも性的な倫理が乱れている(多くの人が平気で浮気をする世の中)にも関わらず、たった一人の女性を愛し抜くのか。」等々・・・。

 神の国の実現を願うクリスチャンの生き方は、この時代、この世界において、クリスチャンとして生きる本当の魅力を伝えながら生きることに直結していくのです。主の祈りは、わたしたちの生き方が変えられていく祈りです。

1/6 聖書箇所 マタイの福音書14:22~34、マルコ6:48

 【説教題】    「わたしたちを見守ってくださるイエス様」 須田神学生 

14:27「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 ①信仰生活における疑問

 だれもが経験する突然の嵐。しかし、弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸に送った

 のは、イエス様ご自身でした。主の命令で舟を出したにも関わらず、嵐に遭遇したので

 す。わたしたちも信仰生活において、イエス様に従いつつも試練に陥り、「主よ、なぜ

 ですか?」という疑問が起こってくる時があります。

 ②イエスの目的(御心)

 イエス様は弟子たちに、この嵐の経験を通して、信仰の大切さを教えようとされていま

 した。つまり、弟子たちが嵐に遭うことは、主の御心においては想定内のことだったの

 です。実は、これ以前に起きたバプテスマのヨハネの死を受けて、弟子たちの信仰(霊

 性)が落ち込んでいました。そのような弟子たちに追い打ちをかけるような嵐の遭遇で

 した。

 ③恐れに打ち勝て! 

 しかし、そのような弟子たちにイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れるこ

 とはない」と励まします。ペテロはまっすぐにイエス様を目指して(目標として)歩ん

 でいたときに、湖の上でさえも立つことが出来たのです。しかし、強風を見て恐怖を覚

 えた瞬間、彼の体はたちまち沈んでしまいました。わたしたちの心には様々な恐れが生

 じます。職場の上司や気難しい方との人間関係の恐れ、自然災害の恐れ、経的な不安

 からくる将来に対する恐れ・・・その恐れから信仰まで取り去られそうなわたしたちの

 手を、主は「すぐに」しっかりと掴み、再び立ち上がらせてくださるのです。

 さまざまな信仰の恐れに打ち勝って、主イエス様と共に信仰の高みを目指してまいりま

 しょう。

12/30 聖書箇所 詩篇22:1~2

 【説教題】    「神様、どうして・・」 櫻井兄弟 

22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」 

 私たちは信仰生活のなかで、ここでのダビデのように「神様、どうして?」と叫びたくなるときがある。

 今年も大きな地震や災害があった。クリスチャンもノンクリスチャンも、等しく同じ災難に会う。まことの神様を信じているのに、イエス様を信じているのに、どうして?という素朴な疑問。素朴で、かつ根源的な疑問。

 しかし、聖書は、はっきりと、すべてのことはすべての人に同じように起こると言っている(伝道者の書9:2)。

 信仰をもっているのに同じようにひどい目にあうのなら、何のために信じているのだろうか・・と思いますか?

 私たちは不幸な目にあわないためにイエス様を信じているのですか?

 サタンがささやく。「神様を信じていたって、ちっともいいことがないじゃないか。そんな信仰は何の役にも立たないだろ?さっさと捨てちまいな。」

 けれどもヨブは言った。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ記2:10

 ここまで言い切るのは難しいかもしれない。でも、ヨブにならいたい。

 祈りが応えられないときにも「どうして?」と言いたくなる。祈っても祈っても応答がなく、主が沈黙されているときの、あせり、失望・・。

 こうした現実を乗り越えることができるのは、ただ神への信頼のみである。どんなに苦しく、つらいことがあっても、見たところはなにも変わらないようでも、神は私たちを絶対に見放さないと信じる。なぜなら御子のいのちを差し出されたほどに私たちを愛しておられるから。神の愛にたいする絶対的な信頼。これこそ私たちにとって、厳しい現実に立ち向かう最後の、そして堅固な砦なのである。

 主の愛のなかにしっかりとどまって、新しい年をむかえよう。

12/23 聖書箇所 ルカの福音書2:1~12

 【説教題】    「クリスマスの神対応~③ヨセフとマリア~ 

10節「私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」 

 先週、奉仕をさせていただいた町田聖書教会には、今月末に出産を控える妊婦の方がいらっしゃいました。小柄な方ですが、お腹にはしっかり赤ちゃんの存在感が!ポコンとしたお腹から今にも出て来そうな雰囲気・・・しかし、見た目とは裏腹に、軽快に歩き回る姿に驚きました。やはり、母は強しです!!

 今日の箇所では、イエスの母マリヤも臨月を迎えていました。しかし、皇帝の命令である住民登録のために、ナザレからベツレヘムという長距離(約140㎞)を旅しなければならなかったのです。妊婦のマリアにとっては、さぞ大変な旅だったでしょう。さらに旅先では、この若い夫婦を泊めてくれる宿屋も見つからず、やっとの思いで見つけたのは、家畜小屋でした。なんとか無事出産を終えたものの、産まれたばかりの救い主が初めて寝かされたのは、家畜のえさを入れる飼葉桶。

 しかし、この箇所からわたしたちは大きな慰めを受け取ることが出来るのです。それは世界で最初のクリスマスの時、ローマ皇帝、この世の権力者の横暴が貫かれているような厳しい世の中で、神の目は、世間的に見れば小さき者であったであろうヨセフとマリヤに注がれていたということ。さらに、信仰のある人でも理解に苦しむような神の深い御心(聖霊によって神の子をやどすということ)を必死に受け止めて生きようとしていたこの若き信仰者たちを、神は決して見離さなかったということ、宿屋すら用意されない世間の冷たい反応を目の当たりにしながらも、それでも聖書は、嘆きやぼやきを記しているのではないということです。嘆きの材料にことかかないのは昔も今も少しもかわりません。しかし聖書は何よりも福音を語ろうとしています。本当に嬉しい知らせ、おとずれがあると言うのです。そして一緒に喜ぼうと、その喜びの中へ私たちを招こうとしているのです。

12/16 聖書箇所 マタイの福音書1:1~17

 【説教題】    「あらゆる人々の王、イエス  

マタイ1:16「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになった。」 

 イエスの物語を始めるにあたり、福音書の著書マタイは、長い系図から始めています。新約聖書を通読しようと意気込んで読み始めてはみたものの、挫折してしまった、読み飛ばしてしまった、いきなりうとうととしてしまったという方もあるでしょう。

 フィリピンの人々、特に山岳民族は、家系をたどり、親戚を見つけるのが大好きです。世界にはそのような文化が多くあります。日本人も、こと、自分たちの家系については、あながち興味が無いわけでもないことでしょう。

 ユダヤ人の系図好きも、旧約聖書を見れば明らかです。しかし、一見、無機質で退屈に見えるこのイエスの系図には、マタイの、ひいては神の明確な意図が見て取れるのです。ここに名前の記されている人々には、様々な人々が含まれています。地位あり、富あり、名声あり、非常に輝かしく誇らしい人々があります。しかし、正史にその名の記録すら残っていない、バビロン捕囚後に没落した、無名の人々があります。そればかりか、一般的な意味を超えた、正史に明らかに「罪人」として記録されている。今風にいえばスキャンダラスな人々も含まれています。さらに、当時のユダヤ文化では、家系図として、記載が避けられがちな「二級市民」「三級市民」の名前も見られるのです。

 しかし、マタイがこれらの名前を、あえて選んで記した。そして聖霊がそれを導いた背景には、明確な意図が読み取れます。イエスはあらゆる人々を象徴する存在として生まれました。そして、あらゆる人々の「王」として生まれました。ユダヤ人にとっては、まさに旧約聖書に約束された「王」であり、異邦人にとっても、社会的弱者にとっても、あらゆる壁を打ち破り、新しい世界をもたらす方なのです。しかも、人類の歴史の手垢にまみれた、悪と罪の象徴としての「王」ではなく、「私たちとともにおられる」(1:23)神なる王であるのです。

今週もこの方に委ね、希望を分かち合っていきましょう。

 

12/9 聖書箇所 ルカの福音書1:2638 

 【説教題】    「クリスマスの神対応 マリヤ」 

1:38「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 

 クリスマス物語の中でも特に有名なエピソードと言えるマリヤの受胎告知。 

聖霊によって神の子なるイエス・キリストを身ごもることを受け入れる。それはつまり、マリヤにとっては、婚約者のヨセフに万が一理解されなかった場合、婚約を破棄されてしまうどころか、姦通罪で訴えられることも覚悟しなければならない状況でした。しかし、彼女は、突然の出来事に戸惑いながらも、み使いが告げる言葉一つ一つを信仰をもって受け止めていくのです。 

わたしたちの人生も大きな神の御計画の中に生かされているのです。しかし、自分自身の欠けや弱さを見る時にマリヤのセリフのごとく「どうして(自分に)そのようなことが起こるのでしょう。」(34節)と神の導きの不思議に触れるのではないでしょうか。しかし、神の選びとは、わたしたちの何が出来る、出来ないに関係するものではありません。なぜならば神様が導かれる出来事全てが、聖霊の力によるからです。(35節、使徒18)当時まだ少女だったマリヤにも、さらには、主の昇天の際に、あの弟子たちにも、聖霊による励ましが語られ続けました。 

わたしたちの信仰生活に必要なことは、人よりも秀でた能力や知力ではなく、この聖霊の力を信じ、受け入れるかどうかということです。 

マリヤの応答は、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)というシンプルなものでした。彼女は何か大きなことを成し遂げようと願ったのではなく、ただ主の語られたこと(御言葉)が、自分自身を通して実現するように、というものでした。これこそが、神が最も喜ばれたであろう、信仰者の応答の姿ではないでしょうか。

 

12/2 ★聖書箇所★ ルカの福音書1:5~25

 【説教題】    「クリスマスの神対応 ①ザカリヤ夫婦」

1:6「ふたりとも、神の御前に正しく、      

      主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」

 ザカリヤ夫婦には跡を継ぐ子供がいないという、当時としては極めて大きな問題を抱えていました。当時のイスラエルにおいては、子どもができないことは屈辱的(神の呪いと考えられていた)なことであり、また恥であるという社会的な背景があったということが、エリサベツの言葉から伺い知ることができます。(25節)どれほど切実な思いで子どものために長年祈ってきたことでしょう。また、年齢的に子どもを諦めなくてはいけない時を迎えても、この夫婦は祈り続けてきたのではないでしょうか。そのような中で、日々変わることなく、忠実で従順な信仰が、一見何の喜びも希望もないと思われる老夫婦の日々を支えたのです。(6節)

 神様は彼らの信仰を顧みてくださって、ようやくその人生の終焉において見事開花したのです。もちろん神様のいつくしみとめぐみによって。

 彼らに与えられたのは救い主イエスの到来を告げるバプテスマのヨハネ。この老夫婦が生涯を通して貫いたその信仰が、待望の第二世代に渡ってなお一層、良き証しを立てていくのです。

 何事もスピードやスマート化を重視する社会に生きている私たちは性急に結論を出そうとする傾向が強いのですが、信仰の世界はそんなに急ぐ必要はありません。忍耐強く神様を信頼して、信仰によって誠実に歩み続けることによって、わたしたちの思いや願いを超えた世界を体験できるのです。

 年老いても決して忘れることなく顧みられ、祝されたザカリヤ夫婦のように、どのようなときでも神様に期待し、絶えず忍耐して神様を待ち望む人に目を留めてくださるのが、私たちが信じている神様ではないでしょうか。

11/25 ★聖書箇所★ ローマ人への手紙15:4~13

 【説教題】    「パウロの望み-人々の救い、教会の一致 吉原 博克牧師

ローマ15:12「異邦人はこの方に望みをかける。

 キリストは「割礼のある者のしもべ」(15:8)すなわちユダヤ人として生まれました。それは「父祖たちに与えられた約束」(同)、すなわち旧約聖書の約束を成就するためであり、「異邦人も‥‥神をあがめるようになるため」(15:9)、すなわち、旧約聖書では救いから漏れているかのように見えた異邦人が、救われるためでした。

 パウロはここで旧約聖書を引用しています。第二サムエル22:50/詩篇18:49、申命記32:43/イザヤ66:10、詩篇117:1、イザヤ11:10の引用です。ここには興味深い流れが見られます。すなわち、ユダヤ人が「異邦人の中で」(15:9)礼拝をしているところから、「異邦人よ」(15:10)、「すべての異邦人よ」(15:11)と呼びかけ、共に「喜べ」(15:10)、「主をほめよ」(15:11)と招き、そして、ついには、異邦人が「エッサイ根」(15:12)、すなわち新約におけるキリストに「望みをかける」(同)、すなわち信じるところに至っているのです。当時、旧約聖書は、モーセ五書、預言書、諸書に分けられていました。このそれぞれ(申、イザ、Ⅱサム、詩)から引用することで、パウロは、一連の流れ、すなわち異邦人への伝道と救いを、旧約聖書全体の教えとして示しているのです。

 キリストを信じたユダヤ人は、この通り、異邦人のもとに出て行き、招き続けました。結果、帝国の各地で教会が生まれていきました。しかし、それは、実は、もはや異邦人へのユダヤ人の働きではありませんでした。ローマ2:28~29に既にあるように、新約時代の「ユダヤ人」とは、「心の割礼」(2:29)を受けた者、すなわち聖霊をいただいた者、すなわちクリスチャンにほかならないからのです。「異邦人」が救われるという、聖書全体を貫く神のご計画のために、過去2000年間、クリスチャンは出て行き、招き続けてきました。その延長に今日、私たちがいます。その結果として、その最先端にいるのです。

 しかし、この箇所は、実は14-15章という大きな流れの一部となっています。「互いに受け入れなさい」(15:7)人々の救いは、教会の一致に結実しなければならないのです。

11/18 ★聖書箇所★ マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り② 

6:9「御名があがめられますように

 天におられる父なる神様への呼びかけから始まる「主の祈り」は、最初に神様の御名があがめられるように祈ることを教えます。これは、「今日も世界中で神様の素晴らしい御名が賛美されますように」と願うだけではなく、「わたしたちの父として、良きものを与えてくださろうとする神様の願いを第一とすることが出来るように」と、わたしたちの願いと思いを導いてくださる祈りでもあります。

 人は、他の誰よりも、また時として神様よりも、自分の名前があがめられるようにと願いやすいものです。自分よりも、評価され、認められていく誰かを横目に見ながら、嫉妬の思いに駆られることもあるでしょう。自分の働きが正しく報われないときに葛藤と怒りを抱くことはないでしょうか。

 そのような中で、「御名をあがめさせたまえ」という祈りは、私たちにもう一度主の御心を問い直すチャンスを与えてくれるのです。天の父なる神様が大いなる神としてあがめられ、賛美されていくときに、わたしたち自身がどれだけ目立たない、小さき存在であろうとも、それを素直に喜ぶことが出来ます。むしろ、万事を益とされる全知全能の神様が大いなるものとされていくことに、心が平安で満たされていくからです。

 主の祈りを祈るときに、「わたしはある」と名乗られた大いなる神が、今日もわたしたちの人生の一ページを共に歩んでくださることに感謝をし、また、自分自身が神の栄光を現わす者として造られた、神のものであるということを日ごとに心に刻んでゆくのです。自分の欲望に生きるのではなく、神の願いに生きることこそが、わたしたちの生きる真の目的です。

 わたしたちは自分たちが祈るとおりに生きていくのです。

11/11 ★聖書箇所★ マタイの福音書6:9~13

 【説教題】    「とっても大切な主の祈り① 

6:9「天にいます私たちの父よ・・・

 教会に通い始めた中学2年生の冬、「祈りたいけど、祈り方が分からない・・・」と言った私に、当時の教会学校の先生の先生がさっとコピーをし、渡してくれたのが「主の祈り」でした。「これはイエス様がわたしたちに教えられた大切な祈りだよ。一緒に覚えようね。」それ以降、暗唱し、今日にいたるまで、何千回と祈ってきました。

この主の祈りこそが、神がどのようなお方であるかをわたしたちに示し、またわたしたちがついつい自分勝手な祈りに走ってしまうことからも守ってくれるのです。

①天におられるわたしたちの父

 わたしたちの父なる神様は天を住まいとされています。「天」という言葉によってわたしたちの目は上に向けら

 れ、それまで近視眼的に自分のことだけを見つめていた心が自然と天に向かい、たとえ自分の願うようにならない

 日常が目の前にあったとしても、「天におられる神様にしか分からないことがあるのだ」という信仰の霊的な成長

 へと導かれていくのです。

②「わたし(個人)」の祈りから「私たち(みんな)」の祈りへ

 主の祈りから教えられることは、キリスト教の祈りとは、「共に祈る祈り」共であるということです。天の神様を

 父として祈るなかで、自分の家族を、あるいは友人を、または教会の中で悩みを抱えているあの兄弟姉妹のことを

 思いつつ、その方々のために祈る必要性を覚えます。そのように自分が誰かのために祈ることを通して、自分自身

 もこのように祈られてきたのだということを実感するのです。わたしたちの天の父なる神様は、それぞれの個人的

 な祈りにも、もちろん答えてくださる神様です。しかし、主の祈りは絶えず「私たち(我らの)」に広がっていく

 ことを求めています。そこに主の御心があるのです。

11/4 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書13:1~20

 【説教題】    「手を洗わずに、足を洗う神 

15節「わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 日が暮れるのがすっかり早くなりました。夏から秋へ、と思ったら秋から冬。手洗い励行を呼びかける季節です。しかし、聖書においては、主イエス・キリストは手を洗わず、弟子たちの足を洗われました。なんとも不思議な光景です。

 当時の習慣では当然、主人の足を洗うのは、僕の仕事でした。それも、ユダヤ人の間では足を洗い合わず、ユダヤ人以外の僕が主人の足を洗っていたのです。ということは、イエスが率先的に弟子たちの足を洗ったというのは驚くべき行為でした。それは、弟子たちの汚れを受け止め、きれいにすることで、彼らの全てを引き受けたことを証したのです。

 「足」は、何かを踏みつけることが出来る部分です。イエスは、弟子たちの中に、いわば、彼らにとっての主人であるイエスを踏みつけるようなことをして、イエスを否定し、自分の足を汚す者が出てくることをも暗示していたのです。

 しかし、イエスの行為を理解しようとせず、他者に仕えることの出来ない人間がいることも、主はご存知です。他者に仕えるどころか、他者にかかとをあげ、踏みつけようとさえします。イエスは自ら、こうした弟子たちの行為の犠牲者となりますが、自分にかかとを上げる弟子たちに愛をもって応対します。そのことを前もって明示したのが、この足を洗うという出来事でした。敵対心を、愛情で「満たし」返すのが、イエスの実例だったのです。

 イエスは自分が実践したことを、弟子たちも実践するようにと勧めています。

(17節)主の御言葉は、知るだけでは不十分で、実践において本領を発揮するのです。到底愛することの出来ない誰かを、それでも愛そうと心に定め、実践しようとするときに、私たちは、自分の愛の欠けと共に、神の愛の大きさを知るでしょう。