11/4 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書13:1~20

 【説教題】    「手を洗わずに、足を洗う神 

15節「わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 日が暮れるのがすっかり早くなりました。夏から秋へ、と思ったら秋から冬。手洗い励行を呼びかける季節です。しかし、聖書においては、主イエス・キリストは手を洗わず、弟子たちの足を洗われました。なんとも不思議な光景です。

 当時の習慣では当然、主人の足を洗うのは、僕の仕事でした。それも、ユダヤ人の間では足を洗い合わず、ユダヤ人以外の僕が主人の足を洗っていたのです。ということは、イエスが率先的に弟子たちの足を洗ったというのは驚くべき行為でした。それは、弟子たちの汚れを受け止め、きれいにすることで、彼らの全てを引き受けたことを証したのです。

 「足」は、何かを踏みつけることが出来る部分です。イエスは、弟子たちの中に、いわば、彼らにとっての主人であるイエスを踏みつけるようなことをして、イエスを否定し、自分の足を汚す者が出てくることをも暗示していたのです。

 しかし、イエスの行為を理解しようとせず、他者に仕えることの出来ない人間がいることも、主はご存知です。他者に仕えるどころか、他者にかかとをあげ、踏みつけようとさえします。イエスは自ら、こうした弟子たちの行為の犠牲者となりますが、自分にかかとを上げる弟子たちに愛をもって応対します。そのことを前もって明示したのが、この足を洗うという出来事でした。敵対心を、愛情で「満たし」返すのが、イエスの実例だったのです。

 イエスは自分が実践したことを、弟子たちも実践するようにと勧めています。

(17節)主の御言葉は、知るだけでは不十分で、実践において本領を発揮するのです。到底愛することの出来ない誰かを、それでも愛そうと心に定め、実践しようとするときに、私たちは、自分の愛の欠けと共に、神の愛の大きさを知るでしょう。

10/28 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書21:1~14

 【説教題】  「静けき朝、静けき恵み」       吉原 博克牧師

ヨハネ21:4「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。」 

 復活の主が数回にわたり御姿を顕してくださり、弟子たちは喜んでいたはずでした。

 しかし、エルサレムでのその喜びもつかの間、ペテロたちは再び混乱していたようです。そこにはあのトマスもいました。復活したといえども、主は常に共にいてくださるわけではなく、弟子たちは混乱し、依然として先行きの不安に苛まれていたのかもしれません。まして主を三度も裏切ったペテロです。トマスに優しく声を掛けた主が、ペテロにも同様に声を掛けたという記録は、20章の復活の記事には、まだ見て取れません。

 思い出せば思い出すほど煮詰まってきたのでしょうか。ペテロは昔からの生業である、漁に出ます。他の弟子たちも従います。しかし、夜通し、魚は獲れません。

 そんな曙の湖畔に、一人の男が現れます。言わずと知れた主イエスです。主は弟子たちの朝食の準備をし、100mほど沖で、成す術も無くいる、弟子たちに声を掛けます。

「舟の右側に網を下ろしなさい。」弟子たちは従いました。途端に大漁です。153匹もの魚です。ヨハネが主だと気づき、ペテロは恥じ入ります。やがて岸に上がった弟子たちに主は声を掛けます。「あなたがたが獲ってきた魚も何匹か持ってきなさい。」主は、ご自身がご用意くださったパンと魚に加え、弟子たちの魚も焼き、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と招くのです。

 主は、弟子たちがまだ何も獲れないうちから、暗い湖畔で火を起こし、ご自分の食材で朝食を用意してくださっていました。一方で、弟子たちの不漁を知っておられ、自ら奇蹟を起こしてくださいました。主は私たちの知らないところで、私たちの必要を満たすべく既に静かに備えをしてくださっています。また、ご自身の素晴らしいみわざに、私たちもまた関わらせ、その実をこの手で取り上げる喜びを味わわせてくださるのです。

 ところで、ヨハネはこの記録を、実に50年の後に記しています。既に多くの弟子が殉教の死を遂げていました。福音書は、弟子同士の友愛と追憶の記録でもあるのです。

10/21 ★聖書箇所★ 使徒の働き5:1~11

 【説教題】  「アナニアとサッピラ事件を通して学ぶべきこと 

4節「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。 

 使徒の働きでは2章の聖霊降臨後、右肩上がりに初代教会の勢力が増していくにも関わらず、今回の5章では、献金をめぐる非常にショッキングな事件が記されています。

 夫婦そろって神を欺き、悲劇をもたらせた最初の人は、アダムとエバでした。では今回のアナニヤとサッピラの欺きは何だったのでしょう。地所を売った代金の一部を自分のために残しておいたから聖霊を欺いたという印象を受けるのですが、ここで私たちはペテロの大切なセリフを見逃してはなりません。「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか」(4節)と彼は言っているのです。すなわち売ったお金を全部自分達のために使っても、それは問題ではなかった。一部だけ献金することも可能だった。では、アナニヤとサッピラの唯一の問題は何だったのか。それは偽善行為にあったのです。彼らは「全財産を捧げるほどの立派な信者である」という印象を与えたいために、本当は財産の一部であったにもかかわらず、うそをついて「全財産である」と言ってしまったのです。

 初代教会は決して献金を強要したり、強制したりはしませんでした。それでも教会では、自発的に捧げようとする人々がどんどん現れていたのです。神の愛に生かされていたからです。滅ぼされても当然の者が生かされているのはただ神の恵み以外のなにものでもないと、感謝に溢れていたからです。この喜んで捧げる姿にこそ、キリスト者の真の自由があるのです。

10/14 ★聖書箇所★ レビ記6:8~13

 【説教題】  「絶やすことのない祭壇の火と神の救い 

13節「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。 

 レビ記に記されている祭壇の火は、なぜ燃え続けさせなければならないのでしょうか。この火は、いけにえの動物を焼き尽くすためのものです。動物は人間の罪の身代わりとして、ほふられ、焼かれていました。それは、人間の犯した罪に対する警告であり、神の裁きの炎を示したのです。と同時に、神の聖さ、正しさをも象徴するものでした。消えることのない炎を通して神が常に聖なる、聖いお方であって、罪や悪などに対して、徹底的なお方であるということが語られているのです。

 

 しかし、それだけではなく、祭壇の火は、「神の救いの手段」でもありました。

 

あの祭壇で、動物のいけにえを代わりに焼き尽くすことで、自らの罪がゆるされ、神との関係が回復されることを当時の礼拝者はいつも思い起こしていたのです。

 

 神の前にふさわしくない罪人・・・どうしょうもない自分の悪習慣や、罪の思いから生じる衝動、そういった罪に苦しみ、苦悩と悲しみに陥ることがあっても、絶やすことなくあの祭壇の火は燃え続けていたのです。いつでも祭壇の火の元にいくならば、悔い改めと神との和解のチャンスがそこにあったのです。

 

 しかし、神の愛はそれだけに留まらず、神のひとり子であったイエス・キリストの十字架の死と復活を通して、動物のいけにえによる罪の応急処置をはるかに超えた、罪からの根本的な解放、救いをわたしたちに与えられました。

 イエス・キリストの救いがなければ、わたしたちは未だに祭壇の火を眺め続ける生活でした。罪責感や後悔が滲む思いでその炎を見つめたことでしょう。しかし、今や、わたしたちが向かうべき場所は、イエス・キリストの十字架なのです。この十字架の元で、全ての自我とプライドを脱ぎ捨て、ぬかずいて祈るときに、聖霊なる神がわたしたちの内側に燃えあがる神の炎を宿してくださるのです。

9/30・10/7 ★聖書箇所★ ペテロの手紙第一1:3~9

 【説教題】  「試練の中で輝く信仰」 

7節「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊い・・・

 私たちの人生は、順風満帆に進むことよりも、むしろ行き詰りや試練と感じる出来事の方が多いのかもしれません。しかし、試練を単なる出来事で終わらせるのではなく、その意義を知ることが大切です。目の前の状況に翻弄され、喜びや感謝が削ぎ落されていくような感覚に陥るときほど、今日の御言葉を深く心に刻む必要があります。

①試練は神様から与えられた期限限定の宿題(6節)

 ペテロはローマ属州の地域に散らされたクリスチャンたちへの励ましのためにこの手紙を送りました。時は1世紀のローマ支配下、激しい迫害下の中を彼らは耐え忍んでいたのです。それはペテロ自身も同じでした。しかし、ペテロは、この試練が永遠に続くものではなく、「一時的なもの」であり、やがて主イエス・キリストとの再会の時に、称賛と光栄と栄誉に至らせるものであるということを知っていたのです。それはまるで、金を鈍化させていく過程のように、試練の時に、聖霊の火を通して私たちの中にある不純物(不信仰)が取り除かれ、純粋に神様を信頼する光輝く信仰へと導く神様からの宿題なのです。

試練の痛みや悲しみよりも、救いの喜びで心を満たす(6,8節)

 手紙を受け取った人々は、実際には喜びおどれる状況ではないのです。それでもパウロは必至で伝えようとしました。私たちはすでに試練の中で輝きだすものを主からいただいているということを。それが永遠のいのちに生きる望みなのです。永遠という時の中で、私たちの試練に対する主の答えと、報いと慰めの時が与えられていくのです。それこそが「ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜び」(8節)ではないでしょうか。難しく考えずに、素直に「天のお父さま」と、父なる神様の懐に身をゆだねるところからはじめてみましょう。

9/23 ★聖書箇所★ ルカの福音書10:25~37

 【説教題】  「行動に映し出される真実の愛」 

10:37「あなたも行って同じようにしなさい。

 ある律法の専門家が、イエス様をためそうとして、また自分たちの正しさを示そうとして、永遠のいのちについて質問しましたが、逆に「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」(26節)とイエス様から問われました。彼は、律法については人一倍知識がありました。もちろん答えることが出来て当たり前です。でも彼は律法を「知っている」だけに過ぎなかったのです。ここでイエス様の2番目の質問「あなたはどう読んでいますか」に注目したいのです。律法を単なる知識に終わらせてはならない。あなたのうちに、どのようにその律法が生きて働いているのか、主はそれを確認されたのです。

 この律法の専門家は、自分の正しさや自分の生活を清く保つことに関しては人一倍努力していたことでしょう。しかし、それは同時に、このたとえ話に出てくる祭司やレビ人のように、自分に精一杯で隣人に関心を向けることが出来ていないことを意味するのではないでしょうか?祭司とレビ人、そしてサマリア人の違いは何かと言うと、前者は、目の前の重傷者を目にしたときに「この人に関わったら自分がどうなるか?」を第一に考えました。しかし、サマリア人は、「自分が今、この人を見過ごしたら、この人はどうなってしまうのだろう。」と、見ず知らずの重傷者を自分の隣人として受け入れ、自分の損得よりも彼を第一に考えたのです。

 イエス様がこのたとえ話の後、「あなたも同じようにしなさい」(37節)と語られた時、この律法の専門家はどう感じたでしょう。きっと私たちと同じように「自分には到底このような愛の行いは出来ない」という思いだったのではないでしょうか。自分は愛の無い人間だ。薄情なものだ。そう思えたなら、その渇いた心に神の愛が注がれていきます。気付くことから始まるのです。

9/16 ★聖書箇所★ 使徒の働き17:16~34

 【説教題】  「知らぜらる神を伝えよう 

23節「そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

 今朝のテキストの舞台は、古代さギリシャのアテネです。ギリシャと言えば、哲学の本拠地です。多くのギリシャ哲学者を輩出した街でパウロが伝道したときに、人々は、パウロが言う新しい教えとは何なのかと興味を示します。実は、当時のギリシャの人々は、パウロが言う新しい教えとは何なのかと興味を示します。実は、当時のギリシャの人々は流行の思想や教えなどをいち早く吸収しようと積極的な姿勢を示すものの、いざ聞いてみると「なんだこんなものか」と言って二度と感心を持たなくなるような人々でした。アテネの街には、実に「知られない 神に」(23節)と名前の知らない神の祭壇まで築くほど、多くの偶像があふれていたのです。そのような街でパウロが福音を語った時、人々は三種類の反応をしました。①あざ笑う(32節)②「また今度」とやんわり断る(32節)③信じて信仰を持つ(34節)

 クリスチャンが伝道を躊躇したり機会を見送ろうとするのは、まさしく①と②の反応を恐れることから来るのではないでしょうか。このアテネでの伝道は「パウロの失敗談」として伝えられています。救われた人数が少なかったからです。しかし、ここでの伝道が本当に失敗だと言えるのでしょうか。このように偶像と哲学に満ちた街でも、神様はパウロを通して、確実に数名の人々を救いに導かれたのです。さらにはパウロはこの後、このアテネでの経験を通して学んだことをコリントでの伝道に活かすことが出来ています。(Ⅰコリント2:1~5)

 わたしたちはパウロ以上に失敗の多いものかもしれません。しかし、反省はしても、怯むことなくパウロのように前に進んでいくことを主は望んでおられます。なぜならいつも聖霊がわたしたちに勇気と情熱と言葉を与え、福音を知らせる主のしもべとしてくださるからです。失敗を恐れず、それぞれが遣わされた「アテネ」で、主の言葉を大胆に語り続けていきましょう。

9/9 ★聖書箇所★ ヨハネの手紙第一5:6~8

 【説教題】  「3つのあかし 

5:7-8「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時、ヨハネの語る教えとは正反対のことを主張するグループがありました。「神の子キリストが人間として来られたなんておかしい」と主張し始めたのです。しかし、ヨハネは、わたしたちが信じている主イエスはさまざまなものによってその真実が証言されている方であると言っています。そして証言するものが三つあると教えます。

①水が証言する。

 ここで言う「水」とは、洗礼を象徴しています。主イエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。もちろん主イエスは全く罪のない方でしたから、罪の赦しを受ける必要も、何かをきよめられる必要もありません。しかし、洗礼を受けられました。それは、洗礼を受けられることによって、ご自分が人として来られたことを明確に示されたのです。

②血が証言する。

 血は「いのち」を象徴します。ヨハネは福音書の中で主イエスの十字架の死をこのように描写しました。「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:34)主イエスが十字架で流されたその血によって、わたしたちは罪から解放されたのです。血は主イエスこそがまことの救い主であるということを証言しているのです。

③御霊が証言する。

 主イエスの昇天後、聖霊がひとりひとりに下った時、あの憶病だった弟子たちが大胆になって、イエスが救い主であることを証言し始めました。そして世界中に福音が広く伝えられるようになったのです、(ヨハネ14:16,26)

今年は日本各地で多くの災害が続いていますが、どのような状況においても、いつも変りなくわたしたちを愛し、救いに導いてくださる主を証し、賛美し続けましょう。

9/2 ★聖書箇所★ ヨハネ11:1~4

 【説教題】  「病むことも、幸いと言える信仰 

11:4「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のため・・

 健康ブームの波に乗って、テレビや新聞では健康食品、健康良品の広告が絶えません。わたしたちは、知らず知らずのうちに、健康は「良いこと(幸福)」で、病気は「悪いこと(不幸)」という価値観が刷り込まれているのではないでしょうか。

 聖書を開けば、イエス・キリストがたくさんの病める人々を癒された奇蹟の記事がいくつも登場します。確かに長年その人々を苦しめてきた病の痛みや苦しみから解放されることは素晴らしいことですが、イエス様は癒しと共に、神と共に生きる者としての大切な真理を教えられました。

 今日の箇所に登場するラザロは、やがて死にゆく重い病を患っていました。周囲の人々は若くして死に向かうラザロを見て、因果応報のごとく、その原因を罪と結び付けたことでしょう。しかし、イエスはそのような当時の思想に真っ向から反するかの如く、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光をうけるためです。」(4節)と慰めの言葉を告げられました。病むことの痛みと苦しみ、また死の悲しみをご存知であられる主は、この後、ラザロのために涙を流され(35節)、死からよみがえらせてくださるのです。死は人間が行くべき最終地点ではなく、その死を超えたところにわたしたちが見るべき本来の最終地点である「神の栄光」が見えてくるのです。

 「病まなければ」という詩にもあるように、病むことを通してわたしたちは神の近さを知り、神の慈しみを知り、わたしたちの人生における神の計画(摂理)の深みを知り、また、究極の慰めである復活の希望を握るものとされるのです。

死を超えていく神の栄光を仰ぎ見る経験…これこそがキリスト者の幸いです。

8/26 ★聖書箇所★ 箴言30:24~28

 【説教題】  「小さな知恵者」 

24節「この地上には小さい者が四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。

 世界には、137万種もの動物(7割は昆虫)が存在しますが、箴言には、多種多様な動物の中から選ばれし4種類の動物が知恵者として紹介されています。

①蟻(あり)「力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する」(25節) 

 小さいながらも四季を意識し、夏のうちに食糧を蓄える蟻の性質から、わたしたちも信仰の冬に備える大切さを教えられます。生活の困難さを覚えるとき、孤独感に苛まれるとき、愛の温もりを必要とするとき・・・そのような信仰の冬に備え、御言葉と祈りによる霊的な蓄えが日々必要なのです。

②岩だぬき「強くない種族だが、その巣を岩間に設ける」(26節)

 空の鳥(鷲など)から身を守るため、岩だぬきは岩場を隠れ家とします。へブル語で「身を避ける」と訳される「ハーサー」という言葉には、「霊的な避け所で神を信頼する」という意味合いがあります。わたしたちにとっての避け所となる岩は、他ならぬ神様ご自身であり、その場所で平安と安息を得るのです。

③いなご「王はないが、みな隊を組んで出て行く。」(27節)

 いなごはリーダーとなるような王は存在しませんが、集団で行動すると言う性質を持っています。団結力があるのです。共に活動することで励ましや慰め、力を得ることは、キリストの共同体に通ずるものがあります。キリストにある者たちが一つとなるために必要不可欠なのは、キリストの愛と聖霊の力です。

④やもり「手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。」(28節)

 やもりはなぜ住処として王の宮殿を選ぶのか・・・それは宮殿の中では王のゆるしなしに手をあげることも、捕まえることもできないからです。わたしたちも万軍の王なる神の家に住まうとき、主の御手に護られていることを知るのです。

8/19 ★聖書箇所★ エペソ人への手紙4:16

 【説教題】  「キリストのからだである教会」 矢部昭仁神学生

4:16「キリストによって、からだ全体は・・・愛のうちに建てられるのです。

 私たちはからだの一部分に痛みが生じたり、あるいは何か病を患うことがあれば、身体的な痛みだけではなく、精神的にも気持ちが沈み、その症状次第では将来まで不安になってしまうことがあるのではないでしょうか。そのような私たちの弱さをご存知である神は、いつも励ましの言葉を、聖書を通して教えて下さいます。

 聖書は、私たちはキリストによって一つのからだであると語ります。ですから、弱っている方がいる時、悩んでいる方がいる時、自分のことのように心を痛めてその方のために祈り、また、互いの欠けや弱さを補い合うことが出来るのです。それこそが教会という共同体のあるべき姿であり、わたしたちが示すことのできるキリストの愛の形なのです。神の家族として、ともに礼拝し、互いのために祈り合い、助け合う。地域や社会において自分の居場所を失い、愛を探し求めている方が多いこの日本において、心の安住を求めている方にこそ、そのようなキリストの愛を示す必要があるのではないでしょうか。

 また、教会は個々人にあった能力(賜物)を活かして補い合う共同体です。

人間のからだには、目は物を見る役目、口は語る役目、耳は聞く役目、とそれぞれに役目があります。そのように、キリストのからだである私たち一人ひとりにも、神様が与えて下さったそれぞれの賜物と役割があるのです。神の愛によって救われ、キリストの犠牲によって罪赦された私たちだからこそ、それぞれの違いを非難したり、裁くようなことはしません。互いに受け入れ、赦し合い、補い合い、愛し合う関係を通してキリストのからだなる教会は今日も建て上げられていくのです。