4/22 ★聖書箇所★ 列王記第二5:1~14

 【説教題】  「福音が、シンプルなのに難しい理由(わけ)  

ヤコブ1:21心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 誰だって、多かれ少なかれ「悩み」を抱えて生きています。今日の箇所に登場するナアマン将軍にとって、一番の悩みは「らい病(皮膚病)」を患っていたことでした(1節)。この病は、回復するどころか悪化するという特徴がありましたので、どんなに大きな犠牲を払ってでも解決したいと切望するものだったのです。そのようなナアマン将軍にある時、福音(良き知らせ)がもたらされました。それは、隣国イスラエルにいる「預言者」のところに行けば「きっと」治るというものでした。期待に胸膨らませてエリシャのもとへ向かいましたが、そこで彼を待ちうけていたのは、全くの期待はずれの対応と指示だったのです。10節を見ると、預言者エリシャがナアマンに提示した解決法は、シンプルではあるものの、少し馬鹿げた方法でした。隣国の将軍という立場にふさわしい到着をしたナアマンに対して、エリシャは自分から出迎えることなく、ただ使いの者の伝言だけで「ヨルダン川に行って七たび・・・身を洗いなさい。」(10節)と指示したのです。将軍として丁寧に迎えられることを期待していたナアマン(11~12節参照)は、このエリシャの失礼な態度に、腹を立て「怒って去」りました。ナアマンにとって、自分が軽く扱われることはプライドを傷つけられ、耐えられないことだったのです。そのプライドこそが、ナアマン将軍にとって、らい病よりも先んじて取り除かれるべきものだったことが示されています。

 さて、私たちも、自分に聞き従えないことや、それを複雑化してしまうことがあります。自分のプライドや都合を脱ぎ捨て、主の前にへりくだり、素直に聖書に聞き、従うということ、これこそが罪と死の解決に不可欠なことなのです。

4/15 ★聖書箇所★ マタイの福音書28:16~20

 【説教題】  「大宣教命令  

28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

 マタイによる福音書の最後は、ユダを除く十一人の弟子と復活のイエス様がガリラヤで待ち合わせて会うシーンです。ガリラヤ―そこは漁師だった彼らがイエス様に初めてお会いして弟子となった感慨深い場所です。イエス様は十字架上の自分を見捨てて逃げ去った弟子たちを立ち直らせ、もう一度召命を与え遣わすために、彼らをガリラヤの地に呼び戻されました。今日はイエス様が天に昇られる直前に命じられた「大宣教命令」を学びます。

 まず、「あなたがたは行って・・・弟子としなさい」(19節)から教えられることは、クリスチャンは自ら出て行き福音を伝える者となるということです。わたしたちが遣わされていくあらゆる場所には、誰にも打ち明けることが出来ない悩みや痛みを抱え、だれかの助けを求めている方が大勢おられます。「この町には、わたしの民がたくさんいるから。(使徒18:10)と語られる主の御声を受け、まず出掛けて行き、そのような方々の嘆きに耳を傾け、寄り添いながら希望と励ましを語る者とさせていただくのです。

 さらに、この大宣教命令には、わたしたちにとって、慰めとなる約束が伴っています。それは「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20節)という主の約束です。これは、わたしたちとともにおられる神の霊―つまり聖霊(パラクレートス)を指します。実際、主イエスが天に昇られてから、弟子たちは聖霊の力を受けて、大胆に御言葉を語り、迫害や仲間の殉教など、さまざまな試練を通りながらも、それは怯むことなく世界の各地で教会が建て上げられ、今もなお、キリスト教会は成長し続けているのです。この聖霊の力を受けて、わたしたちも力強い主の証人とさせていただきましょう。

4/8 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書20:19~23

 【説教題】  「平安があなたがたにあるように」   

20:19イエスが・・・言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 愛する師との別れを経験し、明日からの自分たちの日々や、自分自身の死への「恐れ」に取り囲まれていた弟子たちの真ん中によみがえられた主はおいでくださり、彼らに「平安があるように」と語ってくださいました。それは、死の手前におられる方としてではなく、死に対して勝利しよみがえられたお方として、この朝、私たち向かっても「平安があるように」と語ってくださるのです。それは別れの恐れを振り払い、明日への恐れを取り除き、死への恐れを完全に打ち破る、いのちの主だけがくださる平安なのです。

 さらに主は自分の体を弟子たちに示されました。(20節)当たり前かもしれませんが、よみがえられた主イエスの体には十字架の傷跡がしっかりと残っていました。手足の釘の跡やわき腹の槍の刺し傷など、直視できないほど痛々しいお姿だったに違いない。しかし、それは同時に死の前の姿ではなく、死からよみがえられた姿だったのです。その姿を見て、弟子たちは、「主を見て喜んだ」と聖書は語ります。それは失意と恐れと絶望の中にいた弟子たちを完全に解き放ち、喜びの中に迎え入れる姿だったのです。

 わたしたちはしばしば過去の過ちや傷、なかったことにしたい失敗を隠そうとしてしまいます。しかし隠そうとしても、心の中でいつもその痛みが疼いては、なかなか前に進むことができないのではないでしょうか。そのような私たちにとって、復活の主イエスの体に十字架の傷が残されていたことは、慰めのしるしであり、また希望のしるしです。私たちの主イエスは私たちの傷跡もまたそのままに、私たちを新しい人として生かしてくださる。その時にはもはやその傷は私を新しくぢ痛める傷とはならず、むしろ復活の主イエス・キリストにあって新しく生かされていることの恵みのしるし、罪赦されて生きることの恵みのしるし、傷を負った者でもまた再び生きられるという恵みのしるしとなるのです。

4/1 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書20:1~18

 【説教題】  「なぜ泣いているのですか」   

20:15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか・・・」 

 マグダラのマリアと弟子たちは、復活の主に出会う前に、空っぽになっている墓を目の当たりにしました。彼らはその事態が何を意味しているのか理解できず、マグダラのマリアはイエスの亡骸が誰かに盗まれたのかと心配しだします。しかし、ここで注目すべきは、弟子たちの「そして、見て、信じた。」(8節)という箇所です。彼らはよみがえりの主に出会ったわけではありません。まだ何も、悟っておらず、理解してはいません。しかし、墓が空になっているということを確かに見て、信じた。聖書はそれをよしとしています。ここにはあるべきものがない、イエスの亡骸がなくなったその絶望の中に希望を見始めているのです。

 イエスの遺体がなくなった悲しみの余り、墓で泣き続けていたマグダラのマリアに、復活の主がそっと声を掛けられます。「なぜ泣いているのですか」(15節)という主の言葉に「当たり前でしょう、大切な方を失ったのですから。」と思わず言葉を返してしまいそうになります。しかし、主は死の悲しみを軽んじるお方ではありません。ラザロやナインのやもめの息子が死んだときも、感情を露わにしつつ、死の悲しみを共にされました。にもかかわらず、「なぜ泣いているのか」とマリアに尋ねるのはなぜでしょうか。それは主イエスこそが、本当の死の悲しみを知っておられることによります。父なる神に見捨てられ、十字架に架かられ、死んで葬られ、陰府にまで下るという本当の死の恐怖と孤独と悲惨をその身に経験されたのです。その死から復活された主だからこそ、なお死の悲しみに佇むマリアになぜ泣いているのかと問われるのです。それは死の悲しみを知らない方の言葉ではない。誰よりも死の悲しみ、痛みをその身に追われたうえで、さらにその死に打ち勝ってたくださった主イエスだからこその言葉なのです。

3/25 ★聖書箇所★ ルカの福音書23:13~25

 【説教題】  「ポンテオ・ピラト」   

23:ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。 

 主イエス・キリストの十字架刑がフィクションではないということは様々な点から立証できますが、ポンテオ・ピラトという当時実在したローマの総督の名を記すことによっても裏付けられています。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたが、ピラトは紀元26年から36年までユダヤの総督でした。そのピラトの元でイエス・キリストの十字架刑の判決が下されたのです。このことは天地万物を創造し、支配しておられる神が人間を救うために、歴史に介入してくださったことを表しています。

 ピラトはイエス様が十字架に架からなければならないような理由を見出せませんでしたが、最終的には彼はイエス・キリストを十字架刑に処することを許可せざるを得ない状況になりました。それは自己保身によるものです。

 自分の立場、評判、印象、体裁・・・それらを守ろうとして、大切な判断が出来ない、決断の機会を見失う、そのような落とし穴が人生には存在します。アブラハムやダビデなど、聖書の歴代の人物も、皆この自己保身の罪によって人を苦しめ、自分自身も苦しんできました。だからこそ、今回の話は、ピラトに限ったことではありません。人は皆、ピラトになる可能性を持ち、ピラトと同じ心を抱いているのです。周囲の目を恐れて、自分を守ろうとする。自分さえ良ければいいと思う。そのようなずるい性質をわたしたちのだれもが持ちあわせているのです。

 自分の中にピラトの姿を重ねる時、自分の弱さやを、罪深さに打ちひしがれることでしょう。しかし、そのようなわたしたちのための十字架であったことをもう一度心に留め、この受難週のひととき、苦しみの中でわたしたちを想い、自らの命を投げうって死ぬまでに私たちを愛された主イエス・キリストの深い愛に感謝致しましょう。

3/18 ★聖書箇所★ マタイの福音書2:1~23

 【説教題】  「ヘロデとヨセフ」  吉原牧師

マタイ2:19 「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」」

 主イエスの受難節も、いよいよ最後の受難週を迎えようとしていますが、今日はヨセフの祝日と呼ばれる日でもあります。そこで、どちらかと言えばクリスマス色の強い箇所ではありますが、マタイ冒頭の箇所を取り上げてみたいと思います。

 2:1-20までは東方の博士の話として有名ですが、これはヘロデ大王の話でもあります。偉大な建築事業で知られるヘロデですが、狡猾で残忍、猜疑心の強い人物で、保身のためには祭司たち、妻、姑、息子たちまで殺した人です。このヘロデを博士たちは訪れ、ユダヤの王の誕生を告げるのです。「私も行って拝むから」(8節)という言葉が、真実な言葉になることはありませんでした。

 偽りには偽りを - 神さまの皮肉です。博士はヘロデのもとに戻らず、激怒したヘロデは、ベツレヘムの子らの虐殺を命じます。無垢な子どもたちが犠牲となり、悲痛な親たちの叫びが響きます。究極の悲劇です。神さまはなぜ止めてくださらなかったのでしょうか。私たちの人生にも常につきまとう問いです。しかし、聖書はこれを希望の曙として紹介します。無実の人の死 - すなわち救い主イエスの受難の物語、そして、そこから始まる希望の物語のプロローグとして提示するのです。

 このような、歴史の大きなうねりに翻弄されながら、小さな家族は移動を続けます。夢に従い、お告げに従います。ベツレヘムからエジプトへ、エジプトからユダヤへ、しかし南部ではなく、北部ガリラヤのナザレという無名の町へ。今なら軽率、無謀とそしられかねないほどに、ヨセフは神の声に従順かつ迅速に従い、インマヌエルなる赤子とその母を守るのです。神の憐れみ、人の頑固さ、信仰者の従順、そして神の約束と希望 - 今日はそんなお話です。

3/11 ★聖書箇所★ ルカの福音書6:46~49

 【説教題】  「隠れた土台の大切さ」  

第一コリント3:11 「その土台とはイエス・キリストです。」

 震災から丸7年が経過しようとしています、地震によって地割れした道、津波によってすべて押し流されてしまった東日本大震災の被災地を思い起こしながら、いざという試練のときに備えるベく、わたしたちの人生にも土台が大切だということを改めて考えさせられます。

 この譬え話には家を建てた2人の人が登場します。土台は目に見えないので、パッと見ても違いは簡単には分かりません。しかし、嵐のような試練の時にはじめて土台の大切さが分かるのです。土台のない家は洪水によって一気に倒れてしまい、「そのこわれ方はひどいものとなりました。」と聖書はわたしたちに警告しています。(49節

 言うまでもなく、この譬え話の「家」=「わたしたちの人生」です。「主よ、主よ」と呼びながら、イエス様のおっしゃることを聞かない人がいることをイエス様は冒頭で嘆いておられます。(46節)なぜ人々は主イエス・キリストに聞き従うことができないのでしょうか。それは土台なしに家を建てるという欠陥住宅を造る者の動機を推測すると見えてきます。欠陥住宅を造る業者は見栄を重視し、見えないところのコストを省くことにより、多くの利益を得ようとします。つまり信仰の動機が、祝福や恵みといった利益(見た目)を得ることだけで、土台部分の主イエスとの個人的な関係を大切にすることや、主イエスの御心を行うことを省いてしまうと形だけの信仰になってしまうのですす。

 わたしたちの土台作りは、日々の御言葉の糧と祈りによるものです。見えない土台こそ試練の時に本領発揮するのです。だからこそ、大切に築き上げていきましょう。

 

3/4 ★聖書箇所★ ルカの福音書21:1~9

 【説教題】  「人生の基盤」  

21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気を付けなさい。」

 今回の箇所の前半は有名な献金のお話です。貧しいやもめが持っていた生活費の全部を投げ入れ、それを見ていたイエス様が「どの人よりもたくさん投げ入れました」とおっしゃいました。このやもめの姿にわたしたちは自分自身を重ねてみることもあるでしょう。しかし、わたしたちが直面する「貧しさ」はお金だけの話ではありません。「もっと時間があれば・・・」と思ったり、「もっと能力が・・・」「愛があれば・・・」「体力があれば・・・」と貧しさを感じることがしばしばあるのです。そのような中でこのやもめは「貧しい中から」すべてを捧げたのです。このことは、後に起こる厳しい迫害下の中でも弟子たちが自分自身を捧げて教会を形作って行く「教会の姿」でもありますし、わたしたちの人生は自分で支えるものではなく、神様がわたしたちを生かし、養ってくださるのだという絶対的な信頼を持つ「わたしたちの信仰の姿」をわたしたちに教えています。

 しかし、人々はそのやもめの信仰には目もくれず、「すばらしい石や奉納物で飾ってある」神殿に目を奪われます。そのような人々に、イエス様はやがてこの神殿も崩壊していくことを教えられました。確かに見えるもの、絶対に崩れそうにないものが瞬く間に崩壊することがあることを、私たちはよく知っています。そのような危機的状況に置かれる時というのは、大切な人生の転機ともなり得ます。自分はいったい何に目を向け、何に寄り頼んで生きてきたのかを省みるチャンスなのです。

 本当に変わらないものは何なのか、失われない価値あるものとは何なのかを考えるとき、崩壊の経験でさえも大きな意味を持つことになるのではないでしょうか。

 いつも変わることのない御方、崩れることのない御方と共に生きる生活を築いていくことが大切です。神に信頼し、貧しい自分自身を献げながら生きる生活を築いていきましょう。そのような信仰によって建て上げられるのが教会なのです。

2/25 ★聖書箇所★ 使徒の働き10:9~16

 【説教題】  「福音の豊かさに生きる」  

10:14 しかしペテロは言った。「主よ、それはできません。・・・」

 「使徒の働き」を読むと、神様は世界宣教を担う教会を形成し、リーダーを育成していくために必要な準備を一つひとつ計画的に行われました。9章では迫害者の中からパウロを世界宣教のリーダーとして選び出し、11章では、「世界宣教の拠点」となるアンテオケ教会を生み出されています。そしてその間の10章には、福音に生きる者とされるべくペテロに幻を通して語られているのです。

 ペテロを含むユダヤ人たちは、旧約聖書に記されたモーセの律法を守ることによって自分自身のきよさを自覚的に確かめていましたし、「自分たちは他の異邦人とは違う」という強い選民意識をもって、異邦人の偶像礼拝などから身を守っていました。しかし、「イエス・キリストの福音」は彼らのそのような生き方を180度変えたのです。今や、イエス・キリストの十字架と復活によって、ユダヤ人だけではなく、すべての人が、イエス・キリストの名を信じ、受け入れることにより、神の子どもとされるようになったのです。ところがユダヤ人にとっては、この律法から身を離すことは現実的に受け入れがたい苦しさをもたらしたのです。

 ペテロと同じことがらは、現代のわたしたちにも起こることです。教会には様々な人が集います。その交わりの中で問題となるのは、信仰そのものの問題よりも、むしろそれぞれの持っている律法の問題です。わたしたちの心の中に、ペテロが頑なに守ろうとした食物規定のような律法がまだ生きていないでしょうか。そしてそれが福音の働きを留めていることはないでしょうか。

 私たちの内にあるものが変えられるのは、なかなか大変なことです。しかし、みなそれぞれ自分の中に、自分の正しさやきよさを確かとするための律法を持っている。それがよいかどうかの問題ではなく、そういうものがあると認めるところから、わたしたちが変えられていく歩みが始まるのではないでしょうか。

2/18 ★聖書箇所★ ピレモンへの手紙

 【説教題】  「有害な者から有益な者へ」  

12 そのオネシモを・・・送り返します。彼は私の心そのものです。

 ピレモンはパウロが「同労者」(1節)と呼ぶことから分かるように、彼の伝道活動を陰ながら支援していた人物でしょう。そのピレモンのもとで奴隷として仕えていたのがオネシモです。そのような良い主人のもとで働いていたにも関わらず、オネシモはピレモンに損害を与え、彼のもとから逃げ出して遠くローマまでやって来たのです。そこで出会って救いに導いたのがパウロでした。そのパウロが、オネシモを主人であるピレモンの元へ返すのあたり、「奴隷ではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として」(16節)迎え入れるよう推薦しているのです。それはオネシモがパウロと出会い、福音に触れ、救いを経験したことにより、以前とは明らかに変えられたことを物語っているのです。

 さて、「オネシモ」という名前には本来「有益」という意味があります。オネシモは主人ピレモンのもとで、忠実に仕えていたならば、その名前のとおり「有益」な人生を過ごすはずでした。しかし、彼は主人のもとから逃げ出し、「無益」な者、無益どころか有害な者へと成り下がってしまったのです。これは、神から離れ、罪の中に留まって生きてしまうかつてのわたしたちの人生を象徴しています。しかし、イエス・キリストは「有害な者」となった私たち罪びとを救い、「有益な者、オネシモ」と変えてくださったのです。

 パウロ自身も迫害者として多くのクリスチャンを苦しめたかつての「有害な自分」とオネシモを重ねつつ、回心後の自分を家族のように受け入れてくれたバルナバを思い返しながら、使徒としての権威の裃を脱ぎ捨てて、オネシモとピレモンの仲介役に努めたのでしょう。わたしたち(教会)も「オネシモ」の集まりです。だからこそ、互いに赦し、受け入れ合う主の恵みに歩みたいものです。

2/11 ★聖書箇所★ コリント人への手紙Ⅰ 12:12~27

 【説教題】  「キリストのからだなる教会」  

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 教会について「キリストの花嫁」や「神の宮殿」、「神の家族」、さまざまな呼び方が存在しますが、今日の箇所で、パウロは教会を「キリストのからだ」だと教えています。からだには様々な器官が存在し、それらが全体の益のために各々の役割を果たしているように、わたしたちの教会にも年齢や、職業、賜物の異なる様々な人々が存在し、それぞれの存在や働きを通して教会が形成されているのです。ですから、誰も「役に立たない」と軽蔑されてはなりませんし、自分をそのように思ってもいけません。一人一人がキリストのからだの重要な器官で、なくてはならない存在なのです。

 往々にして人は自分の身体の弱った部分、劣っている部分を隠そうとしますが、「キリストのからだ」はむしろ、弱った部分、劣っている部分こそが喜ばれ、尊重されます。それはその弱った部分をいたわり合うことにより、調和が生まれるからです。

 忘れてはならないのが、教会のかしらはイエス・キリストだということです。イエス・キリストご自身も十字架という「弱さ」を通して神の栄光を現わされました。欠けや弱さを抱えながらも、主の十字架の愛と恵みのゆえにわたしたちが一つとされ、互いを労り、励まし合う姿に本当の教会のあるべき姿があるのではないでしょうか。

 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ローマ12:15

2/4 ★聖書箇所★ マタイの福音書16章13節~19節

 【説教題】  「岩の上の教会」 田中牧師 

16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

 主イエスは弟子たちにご自身をだれと思うかと問われた。この質問は現代の私たちにも強く響く質問ではないだろうか。

 弟子たちは様々な答えを言った。その中でペテロは「あなたは、生ける神の子キリストです。」と答えた。主はこの答えを喜ばれ、岩(ペテロ)という名を彼に与えられた。それだけではなく、この岩の上に教会を建てると言われ、ハデスの門もそれに勝つことはないと宣言されたのだ。ではこの岩とは何を指すのか。この告白をしたペテロが岩なのか。ペテロの告白が岩なのか。

 ペテロもそうであるが、弟子たちは立派な人でも、常に正しい人でもなかった。むしろ弱さもあり、失敗もあった。それは現代の私たちとあまり変わらないようだ。そんな私たちが教会を建て上げる。いろいろな材料があり、いろいろな建て方あるだろう。しかしどんな建物であれ、「あなたは、生ける神の子キリストです。」という岩の上になければ、それは教会ではない。見えるの教会、見えない私たちの内に建てれられる教会、どちらにもそのことが言える。だから弟子たちへの主の問いかけは現代の私たちのも強く響いてくるのだ。

 今日も主は私たちに問われる。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

1/21 ★聖書箇所★ マルコの福音書4:26~29

 【説教題】  「そうこうしているうちに 

ヨハネ12:24 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 「神の国」に関するたとえ話は数多く存在しますが、今日の箇所はマルコの福音書だけに記されているものです。

 人は種を地に蒔くことはしても、その人の力で芽を出させるということはできません。それがいつ、どのようにして起こるかは分からないのです。それと同様に、わたしたちが、神様のために福音の種を蒔き、何か行動を起こしたとしても、それがいつ、どのような形で芽が出て、やがて実を結ぶのかは分からないのです。御言葉にあるように「夜は寝て、朝は起き」という普通の生活を営む中に、神の業が起こり始めていくのです。

すべては神様に主権があるのですから、わたしたちは種を蒔いた以上、成長させてくださる神様に委ねるということが大切です。

 さらに、神様の主権によって結ばれる「実」がすぐに出来るものではないということも忘れてはなりません。初めに苗があり、次に穂、さらに穂の中に実が入るように、種が成長するにあたって数々の過程があり、一つ一つの順序に従って、神の計画が実現していくのです。わたしたちは結果(実)だけを求めるうちに、大切なプロセスをないがしろにしてしまったり、見逃してしまうことがあります。しかし、神様はその成長のプロセスのうちにも、ご自身の御心を私たちに教えておられるのです。

 いつ、どのようにして実が結ばれるか、わたしたちには分かりませんが、収穫の時は必ず来ます。わたしたちがなすべきことは、種を蒔き、収穫の時に鎌を入れることです。

 イエス様は十字架の御業によって、ご自身の命そのものを種とされました。この種は、他の何ものにも代えがたい、豊かな命があります。わたしたちの生活の中で、この種を蒔き続けましょう。目の前の状況で一喜一憂するのではなく、「そうこうしているうちに」も神の時があると信じて、収穫の時を期待し、たゆまず歩んでいきましょう。

1/21 ★聖書箇所★ ヨハネの福音書16:33

 【説教題】  「勇敢でありなさい 

16:33 「あなたがたは、世にあっては、患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 何の問題も、悩みもなしに日々を幸せに生きているという人は、一体どれだけいるのでしょうか。実際は、皆それぞれ、何もないように見せつつ、心の中には仕事や勉強のストレスや、家族や健康の問題、将来の不安などを持ち合わせているのです。イエス・キリストもそのような世の現実をよくご存知でした。だからこそ、「世にあっては、患難がある」と言われたのです。しかし、続けて「勇敢でありなさい」とわたしたちの心を励ましておられます。「勇敢でありなさい」というイエス様の御言葉は、わたしたちが痩せ我慢をしたり、無理をして自分の力でがんばれ、という意味ではありません。イエス様御自身が共に歩み、イエス様が世に勝ってくださったのであなたがたは勇敢でありなさい、心配しないでよい、と言われるのです。

 勇敢であるということは、わたしたちの信仰の応答そのものです。それは、救い主であるイエス・キリストがわたしたちの人生の問題のすべてに勝利してくださっていると信じ続けて歩むことです。「すでに世に勝った」と宣言されたことの中には、わたしたちが「現在」心に抱えていること、あるいはわたしたちをいつまでも縛り続けようとする「過去」の傷や後悔、または、これから起こりうる「未来」の試練も含まれています。

 多くの迫害や患難を経験したパウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)と語りました。そして、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)と信仰告白しています。

 わたしたちも、このパウロと同じ信仰に生きる者として、どのような状況に置かれても勇敢な心の態度をもって、神に信頼し続けましょう。

1/14 ★聖書箇所★ マルコの福音書12:28~34

 【説教題】  「一番たいせつな命令 

12:33 「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

 主イエスに一目置いた律法学者が、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」と尋ねたところ、イエス・キリストは「神」と「人」とを愛することを教えられました。

 「神を愛すること」と、「隣人を愛すること。」単純にこの二つの命令だけのように読んでしまいがちですが、ここに見過ごすことのできないもう一つ「愛」があります。それは「自分」に対する愛です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(31節)とあるように、隣人を愛するためにはまず、わたしたちが健全な自己愛に生きることが必要なのです。神が御子イエス・キリストをお遣わしになるほどに愛してくださっている自分を「高価で尊い存在」(イザヤ43:4)として受け止めるときに、同時に隣人に対しても、尊い大切な存在として見つめる愛のまなざしがわたしたちの内に与えられてゆくのです。

 しかし実際、わたしたちは「愛する」ことの難しさをしばしば感じます。自分のことは棚に上げ、何かにつけて相手の欠点に目が行き、些細なことで批判してしまう弱さがあります。だからこそ、愛の源である神様に立ち返る必要があるのです。

 「愛」は自分自身から湧き上がるものではなく、神から与えられるものであるという心の基盤を持つ者に、主は惜しみなくご自身の愛を示してくださいます。この一年も、神の愛に学び、神の愛に立ち返り、神の愛を体現する信仰者として歩んでまいりましょう。

1/7 ★聖書箇所★ コリント人への手紙第一9:24~27

 【説教題】  「走り続ける  丁怡神学生

9:25 「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」

 「人生はマラソンのようなもの」とよく言いますが、もし人生をマラソンに譬えるならば、どのように走り、完走するのかが大切です。朽ちない冠を得るために、持続的に霊的な筋肉を鍛錬(トレーニング)していくことが求められていきます。

霊的な鍛錬の土台は神様との関係です。日々少しずつ神様と深い関係を築いていくときに、霊的な筋肉が強められていくのです。

 さらに、信仰生活において、目標(ゴール)を意識して走ることがとても重要です。道中、たくさんの困難や誘惑があるかもしれません。しかし、主はわたしたちの葛藤や苦しみなど、すべてご存知です。人はたくさんの訓練や経験を通して、信仰の成長を重ねていくことが出来るのです。

 最後に忘れてはならないことは、信仰のマラソンでは、多くのランナーが共に走っているということです。それぞれ賜物は異なりますが、互いに協力し合い、愛し合うことによって、神様に栄光をお返しすることが出来ます。そして、愛には影響力があります。その愛を通して、多くの実が結ばれてゆきます。

 信仰のマラソンは、実際に走るのは自分ただ一人です。他者に代走してもらうわけではありません。しかし、一人でも孤独ではないのです。それは神様がいつも共にいてくださるからです。父なる神様は私たちの必要をご存知であり、私たちを折にかなって助け、励まし、最後のゴールまで堅く保ってくださいます。朽ちない冠を目指して共に走り続けましょう。